美と愛について(12) ― バーク『崇高と美の観念の起源』

美と愛について(12) ― バーク『崇高と美の観念の起源』

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(上は↑、エドムント・バーク(1729~97)の『崇高と美の観念の起源』1759、引用は中野好之訳(みすず書房)より)

 

前回は、ダーウィンの「性選択」の説を見たが、彼より前に同じことを言っていたのがバークである。バークによれば、美の起源は性的なもので、男女の美は我々の愛の感情と一体である。バークの言うところを聞いてみよう。

 

>私たちの情念に割り当てられるもう一つの項目は、社交societyであり、そして社交は二種類に分類できるだろう。第一は、種の繁殖という目的に応えるための、男と女の間の交渉である。第二は、より一般的な社交であり、それは私たちが他の人間や動物との間に取り結ぶ交渉である・・・。個体の維持に関わる情念は、完全に苦痛と危険に関わっている。しかし生殖に関わる情念は、欲望充足と快楽にその起源を持っている。生殖という目的にもっとも直接に関わるこの快楽は、心地よい性格をもっており、恍惚として、激越なまでの快楽であり、それは間違いなく感覚が与える最高の快楽である。(第1巻、第8節「社交に属する情念について」、邦訳44頁)

 

 カントも美を「社交」に関係づけて論じるので、興味深い指摘であるが、ここで言われる第一の種類の「社交」とは、もちろん性交のことである。バークは第6節で、人間の生に関わる感情を、個体の維持の部分と種の維持の部分の二つに分け、前者は日々の生活の維持であり、個体の空腹、喉の渇き、疲労、病気など「苦」の感情を鎮めることに費やされるが、後者の種の維持の方は、恋愛やセックスなど欲望充足の「快」の感情という積極的なものに導かれると述べている。個体の維持は、ダーウィンの言う自然選択に対応し、種の維持は、性選択に対応しているだろう。「社交」はもちろん種の維持に関わる「快」の感情に基づくが、その核心には、二人の男女の性交という「最高の快」があり、その周辺には、他者一般との良い人間関係があり、その二つの要素から「社交」は成り立っている。そして、男女の性交に関わるのが、「性のもつ美」である「愛」の感情である。

 

>人間は動物のように自由気ままに生きるようには[=乱婚のこと]作られていないので、人間にふさわしいのは、AよりBが好きだからBを選ぶ、ということができる基準を持つことである。そうした基準はまずは感覚しうる性質でなければならない。・・・それゆえ、愛という名のこの複雑な情念の対象こそが、性のもつ美に他ならないのである。人間は、共通の自然法則によって、それが異性であるというだけで、異性一般に惹き付けられる。しかし、ある特定の個人に愛情をもつのは、あくまでその個人の美によるものである。私は美を、社交的性質と呼ぶ。(第1巻、第10節「美について」、邦訳47頁)

 

 バークによれば、人間は、異性一般ではなく、さらに踏み込んで特定の個人に愛着を感じるのでなければならず、それを可能にするのがまさに「個人の美」なのである。ダーウィンの性選択も、異性一般ではなく、異性の特定の個体の魅力に惹かれて生殖を動機づけられることであったが、バークも「個人の美」という言葉によって、それと同じことを述べている。

 

以上のように、生殖を動機づけるものとして、身体の美を捉えているという点で、バークもダーウィンも、性的なものと美とをストレートに結びつけていると言えよう。バークは、性愛の快について、「生殖という目的にもっとも直接に関わるこの快楽は、心地よい性格をもっており、恍惚として、激越なまでの快楽である」と述べていた。裸体の美しさのもつエロスの快は、我々の生殖を動機づけるがゆえに、我々に必然的に伴う不可欠なものなのである。

 

以上は、前回と同様、私の論文『人間の身体の美しさについて ― バーク、シラー、そしてカントへ』(群馬県立女子大学紀要・第40号、2019)に基づいています。詳しく知りたい方は下記↓をご参照ください。一番下の「04植村恒一郎pdf]をクリックすると誰でもダウンロード可。

https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/handle/10087/12590

 

PS :美と愛が最高に一体となったシーン、『フィガロの結婚』の「そよ風の二重唱」、伯爵夫人とスザンナが伯爵を誘惑する手紙を書く相談、科白にはきわどい隠語も、バルトリとフレミング(3分弱)。

https://www.youtube.com/watch?v=BLtqZewjwgA