美と愛について(17) ― 松浦理英子『最愛の子ども』(1)

 美と愛について(17) 松浦理英子『最愛の子ども』(1)

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 多くの哲学者が「愛」について考察したが、プラトン『饗宴』、アリストテレス『ニコマコス倫理学』、キルケゴール『あれか これか』等と並んで、ラカン『アンコール』は最重要文献と言える。『アンコール』は、「女のjouissance享楽=性的快楽」は、必然的に、男の性的快楽=ファルス的快楽とは根本的に異質であり、それは性愛における「他者性」の在り方が男女で根本的に異なるからだという重要な洞察を与えた。非常に難解ではあるが、いずれ本格的に論じてみたい。今回は、その「女の享楽jouissance」が具体的に描かれていると思われる、松浦理英子『最愛の子ども』(2017)を取り上げてみたい。

 

まず『アンコール』第7章の男女の「性別化」の表を挙げておく。

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この表の解読はいずれするが、今は結論だけを話すと、左側が男、右側が女。表の上段は男/女の定義。表の下段は、愛の作用を矢印線で表したもの。左側の$「=斜線を引かれたS」は無意識の主体としての男(=象徴界から排除された男)を意味し、右側のaは想像界の女(「小文字の対象a」つまり見えて触れられるが幻想である女)を意味する。表の右側の上部のS(Ⱥ)は「斜線を引かれた大文字の他者としてのシニフィアン」、右端のLaは「la femme定冠詞付きの女(=女性性のこと、女の本質)」を意味する。表の左側のΦは「ファロス」を意味する。

 

この図で重要なことは、男の愛は、$からaに向かう一本の線しかないのに対して、女の愛は、LaからΦに向かう線と、LaからS(Ⱥ)との二本あることである。しかも、重要なことは、S(Ⱥ)が表の左側(男の領域)ではなく、表の右側(女の領域)にあることである。これは同性愛を意味するのだろうか? それともこの「大文字のA」は「大他者の大他者」つまり、女性は、男性に比べてより豊かな「他者性」に開かれているのだろうか? ラカンは、男性の性愛の快楽は一つしかないが、女性の享楽はたくさんあると考えるから、たぶん後者であろう。ラカンのこの「性別化」表で、S(Ⱥ)が女性領域にあることは、本当に驚くべきことだ。たとえば最近の日本で、非モテ男子は孤独で暗いのに対して、非モテ女子は多様なオタク的趣味で代替しつつ明るく生きていけるのも、それが理由かもしれない。

 

さて、松浦『最愛の子ども』に見出されるのは、まさにこの「さまざまな他者性に開かれている女性の豊かな享楽jouissance」だと思われる。それを以下、順に明らかにしていきたい。本書は、同級である三人の仲良し女子高校生の、性愛を含む友愛の物語である。日夏(ひなつ)は大学教授を父に持つ知的な娘、真汐(ましお)はちょっと尖がっている難しい女の子、空穂(うつほ)は、小柄で天然の愛されキャラ、いじられキャラの女の子。この三人が、それぞれ「日夏=パパ」「真汐=ママ」「空穂=王子様」という疑似家族を形成して愛し合う。クラスメートも三人がこの関係の疑似家族であることを知って、その家族愛を応援している。

 

三人が虚構の家族である点で、三人の性愛は虚構の生殖にもとづいており、「生殖の必要性から解放されたセクシュアリティ」(ギデンズ)といえる。三人は、空穂の家に泊まり込んで(空穂の母親は夜勤で留守)、二枚の蒲団に三人一緒に寝て、愛撫する関係なのだが、その愛撫の詳細な描写が素晴らしい。彼女たちの愛撫は、頬が中心で、乳房など身体の前面にはまったく触れない「ひそやかな」愛撫なのだが、それはとても深い快楽である。性愛といっても、男性はいないから、ペニス、挿入、射精といった「ファルス的快楽」は欠如しているが、しかし三人の「女性のjouissance」はとても多様で豊かである。そして、三人とも愛撫し合いながら、意識はとても醒めているのがいい。「こんなことしていいのかな?」と、恥ずかしさとともに罪悪感を感じながら抱きしめたり愛撫し合っている。高三になって、いよいよ大学受験だが、運悪く、べたべた抱き合っているところを空穂の母に見つかり、日夏は高校に訴えられて、「不純異性交遊」によって無期停学(自主退学)処分になる。「異性」じゃないのに、と思いつつ、「そもそも私たちってレズビアンなのかな?」と、自分たちがレズビアンであると考えているわけでもない。ここは本書の重要なポイントである。フーコーによれば、実在するのは多様な性的現象(セクシュアリテ)のみであり、 その多様な性的現象の中からどのようにグルーピングするかによって、さまざまな「性」の概念が作られる。だから「性」は、本当は、実在しない構成概念なのである。本書は、それがとてもよく分る。

 

三人は愛撫しながら、いろいろな感情をもち、それを意識化しつつ、一人つぶやいたり、相手にささやいたりする。つまり、愛はシニフィアンになるのだ。女子高校生たちの享楽は、ラカンの図のシニフィアンS(Ⱥ)に該当するラカンによれば、「性」は、無意識においてランガージュによって構造化されており、それがさまざまなシニフィアンに触発されて現象する。そのことが本書ではよく分る。また、本書は地の文を構成する語り手が多声で、登場人物に同化したり離れたりするので、実に多声なシニフィアンが全篇に交錯している語り手は、妄想し、捏造もする。これが、愛を描く文学作品として、本作を卓越したものにした理由のひとつなのだが、それについては次回に書きたい。

 

PS: [ところで、女性に愛の作用線が二本あるのは、夫に対する愛と子どもに対する愛であり、男性に一本の線しかないのは、夫は妻に対してしか直接関係できず、子どもへの愛は母親を介して間接的にしかありえないのかもしれない。男性にとっては「他者性」は「女性性」しかないが、女性にとっては「他者性」は「男性性」の他に「自分が生む子ども」という二つがある。松浦のタイトルが『最愛の子ども』であることを考えると、この解釈も成り立つかもしれない。しかしそれは、妻のS(Ⱥ)への愛を「聖母子像」のように捉えることにならないか?  父(神?ヨセフ?)はおらず母マリアしかいない、という点でもこの図と合致する。日夏、真汐、空穂の「疑似家族」は、男性がいないという点でも「聖家族」と似ている・・・。しかしこれは大きすぎる問題なので、いずれゆっくり考えてみたい。『最愛の子ども』を「聖母子像」のように捉えることは、「センス・オブ・ジェンダー賞・大賞」を辞退した松浦に対してふさわしい解釈ではないだろうから。](事後加筆)

 

PS :美と愛が最高に一体となったシーン、『ドン・ジョバンニ』の前回と同じ場面、ネトレプコのツェルリーナ版と、ドミンゴのジョバンニ版、どちらもツェルリーナの「誘惑に負ける喜び」感が横溢(各3分)。

https://www.youtube.com/watch?v=zEDnmGnYb6I

https://www.youtube.com/watch?v=CJspT5qFv3A