[オペラ] ベルク《ルル》 二期会、グルーバー演出

[オペラ] ベルク《ルル》 二期会、グルーバー演出 新宿文化センター 8月29日

(写真はルル↓、スタイリッシュで美しい舞台)

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私は今まで3幕版しか見たことがないが、これは2幕版。だが、見事な終盤になっている。演出のカロリーネ・グルーバーが女性であることが関係しているかどうかは分からないが、明らかに、ルルの人物造形が深まっている。従来の解釈では、ルルは、多数の男や女を自分の意志で誘惑し、破滅させるファム・ファタールだが、本作では違う。ルルは、空虚な鏡のような存在で、自分というものがなく、女という実体もない。男がそれぞれの妄想を投影し映し出す鏡、受け皿でしかなく、男から襲いかかる妄想のあまりの重さに、押しつぶされ、死んでしまう。このようにルルを解釈するのは、とても説得的だ。グルーバーのプログラムノートによれば、ルルは捨て子を拾われて育ったので、父も母も兄妹も知らず、12歳から売春させられていたから、「彼女が普通の人間に成長していくのはある意味不可能なことです」(p30)。エディプス・コンプレックスにあるように、男の子がバランスの取れた男性性を獲得すること自体が大きな試練だが、たぶん女の子にも同じような試練があるのだろう。ルルがバランスの取れた女性性を得られなかったことは、彼女の自己責任ではない。だから彼女が男をたくさん破滅させたとしても、それは彼女の責任ではない。ヴェデキントの原作も含めて、おそらく『ルル』とはそういう物語なのだろう。

 

オペラ《ルル》には、あまりにもたくさんの男女の修羅場が詰め込まれているので、演劇的なテンポが速すぎて、観客はとても疲れる。今回、私は、この主題には無調の音楽はむしろ適しているのではないかと思った。ベルクの音楽には不快な不協和音が多いわけではないが、不調和が全体の基調となり、そのなかに美しい瞬間がときどき現出する。でもこれは、《ルル》はとても極端だとしても、およそ男女の愛というものは根本に不調和が支配することを表現しているのではないだろうか。そう、「愛の不可能性」という、ラカンのあの大きなテーゼを。たとえば、第2幕の終り、パリに逃げる直前のルルに向かって画家のアルヴァは「この青い美しい服を通して、僕は君の肉体を音楽として感じる」と歌うが、これは真の愛の表現ではなく、アルヴァの妄想として否定的に解釈しなければならないだろう(写真↓、右からアルヴァ、ルル、そして左はルルの魂のダンサー、肉体は喜んでいるが、魂はうづくまっている)。

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この舞台では、コンテンポラリーダンサーの中村蓉が「ルルの魂」となって、歌手である「ルルの肉体」に付き添っているという斬新な演出が素晴らしい。とくに、2幕版の終盤を形成するには絶対必要なことがよく分かる。本作では、ベルクの原作の第2幕を終わったあと、「ルル組曲」の後半2曲と、「アダージオ」が声楽抜きで奏される。歌がないのだから、何かを作らなければ場が持たないわけだが、それをルルの魂とルルの肉体とが接近し離れていく踊りで表現するのはすばらしい解決だ(写真↓上)。しかし最後の最後には、第3幕版の最後の言葉であるゲシュヴィッツ伯爵令嬢の言葉、「ルル! わたしの天使! もう一回顔を見せて! わたしはこんなにそばにいるのよ! このままずっとそばに、いつまでも!」で終わる。つまり、二人は、愛の中で死んだわけで、ルルとゲシュヴィッツレズビアン的愛は、究極的に肯定されている。ただし、舞台のこの最後の歌がゲシュヴィッツの言葉であることは、3幕版を知っている人にしか分からない。本作は、全体にゲシュヴィッツとルルの関係の表現がやや不足していると思う。ゲシュヴィッツも画家で、原作では、彼女はルルの大きな絵を描き、彼女はそれに体をこすりつけて身悶えする。本作では、ルルの人形もあり、彼女はそれを抱くシーンがあったから、一応は表現されている。たしかに本作では、ルルの魂、ルルの肉体、ルルの人形(妄想を投影されたルル)と、同時に三人のルルがいるから、これはよく考え抜かれた演出であることが分かる(写真↓下は、左から、人形、肉体、魂)。

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