[演劇] マゾッホ原作『毛皮のヴィーナス』

[演劇] マゾッホ原作『毛皮のヴィーナス』 シアター・トラム 8月31日

(写真↓は終幕、ワンダ(高岡早紀)とゼヴェーリン(溝端淳平))

マゾッホ原作の小説を、アメリカのD.アイヴズ1950~が演劇化2011したもの。性倒錯を表わすとされる「マゾ」や「サド」の名称は、それぞれ作者名からきており、「マゾ」は、オーストリアの作家マゾッホ1836~95が1870年に書いた『毛皮のヴィーナスVenus in Pelz』に由来する。「毛皮」は、ティツィアーノ「鏡を見るヴィーナス」のヴィーナスが毛皮を身に付けていることに由来するが、マゾッホの原作では、南国の官能的なヴィーナスが、キリスト教の厳しい性道徳が支配する寒いヨーロッパの北国で、防寒のために仕方なく毛皮を着ているという設定。(以下、写真↓は舞台)

アイヴズの演劇では、ワンダ役の女優を募集するオーディションで、演出家が、やってきた女優をテストしているうちに、二人がワンダとゼヴェーリンに成り切ってしまうという、劇中劇の二人芝居になっている。とてもうまい設定だ。枠組みとしては、演出家と女優は、支配する/される側にありながら、劇中では、男は、女に鞭打たれて快感を得るという、支配される側に置かれる。原作でも、実は二人の立場は、ヘーゲルの「主人と奴隷」の弁証法のように、たえず逆転するのだが、このアイヴズ版が面白いのは、最後になって、男と女が互いに相手の科白をしゃべり演技することによって、この逆転がとても印象的に呈示される点にある。演出家による女優のオーディションという場面では、互いにジェンダーを替えて演じてみることもありなのだ。「マゾヒズム」が主題というよりは、フェミニズム的転倒に重点を置いているように見えるので、びっくりして原作を読んでみた。驚いたことに原作そのものがそういう作品なのだ。そもそも「マゾヒズム」としては、鞭打つ側は男女いずれでもありうるが、マゾッホの原作では女が鞭打つ側なのも、何か意味があるのだろう。

原作の最後で、主人公のゼヴェーリンはこう言う、「女というものは、自然が産み出したものですが、現在のように男が女を養い育てている限り、女は男の敵なのです。女は、男の奴隷か、あるいは男の暴君か、いずれかでありうるだけで、決して人生をともに歩む同伴者ではありえません。女が男の同伴者になることができるのは、女が男と権利において平等になり、教養と仕事において対等になるとき、そのときに初めてそうなるのです」(ドイツ語原文から植村の訳)。1870年にマゾッホがこのように言っていることを知って、私は本当に驚いた。『毛皮のヴィーナス』は、マゾヒズムを讃えているのではない。どちらかが支配する側/される側になるのは、男にとっても女にとっても辛い不幸な事態なのだ、と主張している。天秤が完全に釣り合うことは難しく、つねにどちらかに傾きながらまた反転するように、本来は対等な人格同士の関係であってほしい男女の性愛も、つねに一方に傾きがちで、完全な均衡は難しい。これこそが、一部の人にとってだけでなく誰にでも起きうる、悲しむべき「マゾ/サド」問題である。マゾッホの原作がそれと正面から向き合っているのに、そのことが見落とされがちだったが、アイヴズ版の演劇でそれがより可視化された。高岡も溝端も名演だった。