[演劇] テネシー・ウィリアムズ『ガラスの動物園』 ヴァン・ホーヴェ演出

[演劇] テネシー・ウィリアムズガラスの動物園』 ヴァン・ホーヴェ演出 新国 9月28日

(写真↓はアマンダ[イザベル・ユペール]とローラ[ジュスティーヌ・バシュレ]、そしてトム[アントワーヌ・レナール]、ローラはトムの姉だが妹のように可愛い)

ガラスの動物園』はテネシー・ウィリアムズ(1911~83)自身の自伝的な作品であり、彼の2歳上の姉ローズとトム(ウィリアムズ自身の本名はトム)との愛が、本当の主題だ。ヴァン・ホーヴェ演出のこの舞台は、ローラ(劇中のあだ名は「ブルー・ローズ」)をかなり病的な人物に造形しており、彼女は、少しやつれて、つねに表情が硬く、舞台上のほとんどは、毛布をちょっとかぶって部屋の隅の床(ゆか)に寝ている。メンタルを病んでいるのだろう。通常の演出では、ローラを「引っ込み思案」で「内気」な女の子に造形しているが、ホーヴェはもっと突っ込んでいる。原作の戯曲では、ローラは「脚が悪い」ことになっているが、ホーヴェはそこを変えて、ローラを実在の姉ローズに近づけている。

 

姉ローズ(1909~96)はメンタルな障碍があって、対人関係がうまくいかなかった。ローズは1937年に、かかりつけの精神科医に出かけるとき、包丁をハンドバックに忍ばせているのが見つかり、精神分裂症と診断され、まずカトリックの施設に収容され、その後ミズーリ州の州立精神病院に移された。そして30年代の終りに脳のロボトミー(前頭葉切開)手術を受けて、「悲劇的におとなしくなってしまった」(ウィリアムズ『回想録』1975)。写真下↓は、最初の二枚はカトリック施設のローズ28歳頃と思われる。最後の一枚は20歳、「姉のローズ、ノックスビルで社交界にデビューしたころ」(『回想録』)だが、表情はやや硬い。

ホーヴェはプログラムノートに、ローズは「今なら[精神分裂症ではなく]双極性障害と診断されるだろう」と書いており、ローラをそのように造形している。これはおそらく正しい演出であり、私は、トムと姉ローラの愛は、「ケアとしての愛」であり、それを真正面から描いたことが、『ガラスの動物園』を20世紀演劇最高の名作の一つにしたのだと思う。

 

ガラスの動物園』には決定的に重要な科白がある。ジムとローラがダンスをして、ジムが躓いたとき、ガラス製の小さなユニコーン(一角獣)にぶつかって、その角を折ってしまった。謝るジムに、ローラは言う、「(微笑んで)手術を受けたと思うことにするわ。角を取ってもらって、この子もやっと普通[の馬]になれたと思っているでしょう!」(戯曲、小田島訳p146)。この「手術」とは何だろうか? 間違いなく、姉のローズがロボトミー手術を受けさせられて、ほとんど廃人のようになってしまった、あの「手術」のことである。ユニコーンの角が一本折れるとは、姉の脳の前頭葉の一部が切除されたことの隠喩であろう。おそらく姉は手術の意味がよく分らず、「手術を受けてよかったわ」というようなことをウィリアムズに言ったのだろう。なんと悲しい科白ではないか!(写真↓は、角が折れる前のガラスのユニコーンを見るジムとローラ)

ジムに優しくされ、凍り付いたようなローラの硬い表情が徐々に生気に満ちたものに変わり、ジムに導かれて二人はダンスを始める。初めはぎこちなかったローラの身体もしだいに滑らかになって、体全体で喜びを表現し、そして最後にジムのキスを受け入れる。このシーンのなんという美しさ! 世界に数あるすべての演劇の中でも、屈指の美しいシーンではないだろうか。私はいつも涙があふれて、ほとんど舞台を正視できない。しかし、これはローラの人生にとって、初めてのキスであると同時に最後のキスなのだ。原作の戯曲には、さりげなく「これは、実はローラにとってはそのひそやかな人生のクライマックスなのである」とト書きされている。つまり、ローラはここでジムに励まされたけれど、しかしもう二度と恋をする機会はなく、ガラスの動物たちと遊ぶだけの引き籠りで一生を終えるだろう(姉のローズが施設で生涯を終えたように)。

 

ではしかし、この世に生を受けたローラという一人の女性は、その生を一度も祝福されずに死んでいくのだろうか。否、断じてそうではない! そのためにこそ『ガラスの動物園』は書かれたのだから! ニーチェは、芸術を、「我々の現存在(=この世に生まれてきたこと)を肯定し、祝福し、完成するもの」、と定義している。ローラというこの薄幸の女性も、彼女の現存在を一度も祝福されることなく永遠の無の中に消えてゆくのではない。ジムとのダンスシーンは、彼女の現存在がこのうえなく祝福される「永遠の今」である。このホーヴェ演出では、トムが姉のローラを強く抱くシーンが何度もある。つまり、ローラの愛のパートナーはあくまでトムであり、ジムはトムの(役割を演じる)分身あるいは影に過ぎないのだ。多くの批評家が『ガラスの動物園』の真の主題は「近親相姦」だと言ったそうだが、もう少し言い方に工夫がほしい。ローラの現存在を祝福する愛のパートナーは、たまたまトムとジムであったけれど、真に重要なことは、彼女の現存在が愛によって祝福されたという、その一点にあるのだから。『ガラスの動物園』は、トムの回想としての劇中劇であり、その回想によれば、トムはローラとアマンダを捨てて家を出る。これは、姉ローズのロボトミー手術のとき、ウィリアムズはしばらく家を離れており、手術を阻止できなかったことの後悔と罪の暗喩であると、私は解釈したい。トムの分身であるジムが躓いてユニコーンの角を折ってしまったことが、ロボトミー手術を受けさせてしまったことの後悔の暗喩であったのと同様に。