[演劇] P.ハントケ『カスパー』 東京芸術劇場

[演劇] P.ハントケ『カスパー』 池袋・東京芸術劇場イースト 3月31日

(写真↓は、寛一郎演じるカスパー)

ハントケの戯曲は、カスパー・ハウザーの史実とは違うし、この舞台も、ハントケの戯曲の忠実な上演ではない。バレー・ダンサー出身のウィル・タケット演出なので、大駱駝艦のダンサーたちがカスパーを囲むなど(写真↓)、身体パフィーマンスはとても興味深いが、演劇としては、何を言いたいのかよく分からない不条理劇になっている。

19世紀初頭にニュルンベルクで発見された16歳の少年カスパー・ハウザーは、生まれてからずっと農家の納屋の地下で育てられたとみられ、言葉は「おとうさんのような軍人になりたい」「わからない」「うちの馬」の三語しか話さなかったという。しかし、ハントケの戯曲やこの舞台では、カスパーは「僕はそういう前に他の誰かだったことがあるような人になりたい」という一文しか話さず、しかもこれだけを繰り返し語るが、文の意味はまったく分かっていない。つまりハントケは、史実のカスパー・ハウザーの言語習得の過程をそのまま劇にしたのではなく、それに想を得ながらも、一般的な言語習得過程として提示している。彼は戯曲の冒頭に、「この劇は言語拷問だ、誰かが話すことを通じて話すことを強要される次第なのだ」と書いている。この「言語拷問」というのは、たしかに優れた主題だ。先天的な盲人が開眼手術を受けて、初めて視覚を獲得したとき何が起こるかという問題は「モリヌークス問題」と呼ばれるが、さまざまな物がくっきり見えるどころが、どーっと光が襲ってくる感じで、何も見分けられないという。同様に、一度も言葉を聞いたことのない少年が、外界に出て突然言語に接したら、たぶん言葉が「襲ってくる」感じになるだろう。その感じはこの舞台からも分る。

 とはいえ、この舞台は、実際にカスパーに言葉を教える場面を忠実に再現したものではない。実際に言葉を教える場面なら、たとえばヘレン・ケラーが言葉を教わるようなシーンになるだろう。だがこの舞台では、「プロンプター」と呼ばれる三人の男たちが、高みから、いわば言語についての超越論的反省のようなセリフを浴びせる。たとえば、「文は、文という単語がお前に嬉しいものであればあるほど、お前にとってますます嬉しいものになってゆく」「もののない単語。単語もものもない。単語と文。文、文、文」。つまり、舞台で起こっていることと、プロンプターの科白が対応していない。このあたりが、この劇を「不条理劇」にしてしまっているように感じた。(写真↓は、カスパーとプロンプターたち)