[演劇] 野田秀樹『兎、波を走る』

[演劇] 野田秀樹『兎、波を走る』 東京芸術劇場 6月27日

(写真↓は舞台、たくさんの物語が時空をまたいで多重交錯しているので、全体が難解になった、写真上は、左から作家シャイロック・ホームズ、チェーホフ、中央が[不思議の国の]アリスの母、そして右が『桜の園』のラネフスカヤ夫人)

最高傑作である『パンドラの鐘』『キル』などの頃に比べると、最近の野田作品はずいぶん難解になった。2年前の『フェイクスピア』では、墜落した日航ジャンボ機のボイスレコーダーに残された死者の「声」を手掛かりに、死者たちとの言葉による交信が主題だった。それによって、現実世界の出来事が歴史の中に忘却されてしまうことに野田は抵抗した。今回の『兎、波を走る』も同様に、現実世界が歴史の中に忘却されることと、それへの抵抗が主題だ。アリストテレスは、我々の生の現実態を「現実態として再生(ミメーシス)する」のが歴史学であり、「必然性のある可能態として再生する」のが演劇=芸術だと定義した(『詩学』)。この観点からすると、野田の『フェイクスピア』も『兎、波を走る』も、「演劇」の本来の課題を真正面から遂行している。とはいえ、本作は、やや多すぎる主題を一気に引き受けたために、全体が何を言いたいのか分かりにくくなってしまった。主要には、北朝鮮による拉致事件を、行方不明になった娘(アリス)をアリスの母親が「不思議の国」に探しに行くという物語と重ね合わせ、チェホフ『桜の園』の「遊びの館」が売却されて歴史の中に忘却されることにラネフスカヤ夫人が抵抗するという話と、掛け合わせている。しかも、妄想と現実の交錯を、「もうそうするしかない」=「妄想するしかない」=「もう、そうするしかない(=現実)」という言葉遊びに載せて、ころがしてゆく。さらに、作家が戯曲を書いたこれまでと違って、AIも戯曲を書くという最近の新しい状況をこれに絡ませ、作品=妄想のバーチャル空間性を新しく描き出そうとする。そして、「波を走る兎」とは、現実と妄想の間を激しく駆け抜け、たえず往来せざるをえない我々現代人のことである。でも、話がやや難しくなりすぎたと思う。「アリスの不思議な国」である「妄想の国」は、38度線の向こうの北朝鮮のようでもあり、この日本のようでもあり、世界を股にかけて諜報活動をするアメリカのようでもある。「兎=Usagi」のアルファベットを凝視すると、「USA-GI」となり、アメリカの諜報活動を意味するという言葉遊びはたしかに面白い。しかし、アリスとその母が、横田めぐみさんとその母とオーバーラップすると、笑わせる場面の笑いもすぐ凍り付いてしまう。(写真↓は、赤いロープである38度線を越えて引っ張り合うアリスの母[松たか子]、兎[高橋一生]、アリス[多部未華子]、その下は、月の向こうからこちらを見るアリス、こうした舞台を激しく動き回る若者たちの美しい動性は、野田劇に一貫して健在だ)

アリスは不思議の国=妄想の国=北朝鮮にいる10年間の間に赤ん坊を産む。アリスはよく酒を飲んで酔っぱらう(写真↓)。母親と娘アリスの関係には、エレクトラ・コンプレックスのような何かがあることが示唆されているようにも思えたが、複雑すぎてよく分からなかった。いずれにしても、たくさんのコンテクストが交錯し、それらは収束するのではなく、ますます拡散してゆくので、それらを往来する兎は、ついに往来しきれずに、疲れ果てて死んでしまう、というのが最後の結論なのだろうか。いずれにしても、どこか終末論的な作品だと感じた。野田はプログラムノートで、内容は悲劇なのに喜劇の形式で作劇したチェホフに学んだと言っている。俳優についてだが、この上演で大鶴佐助、前日の『少女都市からの呼び声』で大鶴義丹と、唐十郎の二人の息子を続けて見られたのはよかった。

 

2分の動画が

高橋一生、松たか子、多部未華子らが豪華共演 NODA・MAP『兎、波を走る』6月17日に東京芸術劇場プレイハウスで開幕/全公演 当日券販売あり - YouTube