[演劇] 木ノ下歌舞伎『摂州合邦辻』 横浜KAAT 5月31日
(写真↓は舞台、糸井幸之介作曲の音楽はまるでミュージカルなのだが、ギリシア悲劇のコロスであるよりは、私には、皆が讃美歌を歌いながら踊っているように感じられ、涙が止まらなかった)
数年前に、木ノ下歌舞伎『心中天網島』に衝撃を受けたが、本作もそれに劣らない傑作だ。これだけ素晴らしい舞台を見られるのは、一年に一度あるかないか。まるで奇蹟のような舞台。それにしても、文楽には何と傑作が多いのだろう。私のような素人には文楽はなかなか十全に鑑賞できないのだが、木ノ下歌舞伎が現代劇化してくれると、自分で原作を見る以上に心が動かされる。本作は、玉手御前が、夫の先妻の子の俊徳丸(土屋神葉)に本当に恋をしていたのか、解釈が分れるというが、本当に恋をしていたに決まっている。というのは、近松もそうだが、「自然的傾向性としての愛」(カント)と倫理との激しい相剋に苦しみながら死んでゆく人間の限りない愛おしさこそ、演劇が表現する究極のものだから。そう、『心中天網島』や『摂州合邦辻』は、ギリシア悲劇やシェイクスピア等と並ぶ世界演劇の超傑作だ。木ノ下がアフタートークで言っていたが、文楽という表現様式の秘密の一つは太夫の語りの音楽性にある。筋の不自然さや欠陥なんか、太夫の語りで吹っ飛んでしまうと言う。だから、ミュージカルのように音楽劇化したことは正解なのだ。私は、めちゃくちゃな筋に音楽によって大いなる調和を実現したモーツアルト『魔笛』を思い出した。(写真↓は、左から父の合邦(武谷公雄)、娘の玉手御前=お辻(内田慈) 、お辻の母のおとく(西田夏奈子)
それにしても本作は、現代演劇としても凛として自立している。合邦とお辻との子供時代の父娘愛は、原作にはない木ノ下の加筆というが、この父娘の強い愛があってこそ、最後、父が娘を刺し殺してしまう悲劇性が際立つのだから(ヴェルディ『リゴレット』も似ている)、この加筆は演劇表現として不可欠だろう。それにしても本作は、役者が見事だ。誰もがいいが、たとえば玉手御前の側近の羽曳野は、脇役だが非常に重要な役。凛としてキリっとした女房を(おそらく羽曳野は、清少納言のような頭脳明晰なキャリアウーマン)、本作では伊東沙保が演じている(写真↓右、伊東は本作で、街頭で編み物をする老婆も演じており、彼女のような名優でなければできない役だ。『心中天網島』のおさん、『三人姉妹』のオーリガ以来の、彼女の名演と感じた)
木ノ下によれば、薬で癩病を引き起こしたり生き血を飲んで瞬時にそれを治すなどは、18世紀末の観客には荒唐無稽と感じられたと言う。そういう荒唐無稽な神話や奇蹟が平然と筋に織り込まれているのに全体としてこの上なく美しい調和が実現したという点でも、本作はジングシュピール(歌芝居)『魔笛』に似ている。糸井の音楽付きジングシュピール『摂州合邦辻』なのだから。
1分強の動画が。