永井均「私・今・そして神」

[読書]  永井均『私・今・そして神』(講談社現代新書、2004年10月刊)

素晴らしい本だ。アマゾンのレヴューは短いので、書き残した補遺をここに。

(1)第3章が重要。永井の独我論と私的言語の考察が、時制やカント原理vsライプニッツ原理という新しい視点から再度光を当てられて、大団円を迎える。彼の書いたものの中ではもっとも明晰で、最良の記述だろう。


(2)「言語は開闢を隠蔽する。逆に言えば、世界を開く。人称、時制、様相は、客観的世界の成立に不可欠な要件だが、それは開闢それ自体を隠蔽することによって可能になる。」「<現実世界>という語でさえ、それがこの世界を指すのであれば、我々の私的言語であろう。<現実>という概念と<この>という私的指示を、我々はいともやすやすと等置しているではないか。それは本性上[ウィトゲンシュタインの言う]カブトムシなのではないか?」「私、今、現実、神・・・世界の内部で理解されるなら、それらはつねに、もし世界内の一存在者でないとすれば何も連動していない歯車にすぎない。・・・しかし、通り越して短絡させることのできる、機構全体とまったく繋がっていない、その歯車こそが、その機構全体をはじめて現実に存在させているのだ。」(以上p222f.)  彼の主張は以上に尽きる。


(3)永井はまず、時制、人称、様相をひっくるめて、カント原理とライプニッツ原理という対比のもとに置く。「この私」という統覚の統一は、同時に経験の対象の成立でもあるから、「この私」が多くの私の一人でもあるように「世界」の中に位置を与えられる。これがカント原理であるが、それは開闢を隠蔽して、整合的な経験の連続性の内に「この私」を収めてしまう。カント原理についての議論は非常に明快で説得力がある。


(4)だが、ライプニッツ原理はどうか。永井は、過去や未来の世界との経験の整合性なしに「この私」が現実化される「開闢の奇蹟」の可能性を、ライプニッツ原理と呼んでいる。ライプニッツの神は、その「意志」によって、多くの可能世界の中の一つを現実化できるという点に、その論拠を求める。他方で、モナド論はパースペクティブの違いを通じて「この私」を多くの私の一人にするので、むしろカント原理に近いから、永井はモナド論を退ける。


(5)結局、永井のいうライプニッツ原理は、実は、任意に世界や私を創造できるデカルトの神に近い。「連続創造説というのは、ライプニッツ的な神の意志が毎瞬はたらいて、そのつど新たに世界が創造されるという説である。」(p185)とあるが、これはデカルトの神である。ライプニッツの神はそんな忙しいことはしない。一度だけ創造すれば、あとは充足理由律に従って世界は現実化する。永井は一方でカント原理という非常に強力な枠組みを立てたので、それの対極として実際はデカルトの神を立てざるをえない。ライプニッツはカントとデカルトの間で二つに引き裂かれてしまったように思われる。


以上が感想。本書によって永井均の哲学はこれまでになく明晰になったと思う。