ポス・コロ風(?)『蝶々夫人』

[オペラ] 6.27  プッチーニ蝶々夫人』    新国立劇場


オケは東フィル。栗山民也のポスト・コロニアル風(?)演出が光る。よくある日本の様式美の強調ではなく、完全に現代演劇の舞台だ。舞台全体が、大きな円形の石の壁。円形の壁に沿ってゆるやかな階段があり、それ以外は何もない空間。正面奥に置かれたついたての格子が、障子を表わす唯一の「日本風」。階段を上がった正面が大きな出口で、そこに広がる青空の真ん中に星条旗が翻っている。卒業式の壇上の日章旗のように、舞台の中央高所に翻る星条旗こそ、栗山演出の核心だ。プッチーニの旋律に引用されているアメリカ国歌も、9.11以後の我々日本人が、翻る星条旗の下で聞かされると、その印象も複雑だ。


アメリカ人士官ピンカートンの「現地妻」蝶々があっさり捨てられるという物語だが、それを個人の物語に還元せず、物語を生んだ帝国と従属国の"非対称性"に焦点を当てる。『お菊さん』を書いたピエール・ロティも、1885年にわずか一ヶ月の長崎滞在で「現地妻」との「結婚式」を挙げた。後進国の「娼婦」が、西洋帝国主義の「遊び」の対象であったことがよく分る。蝶々も芸者出身だが、玄人女性は遊ばれても当然と、プッチーニが考えていたわけでもなさそうだ。一応は蝶々の立場に立って、ピンカートンの不当性を批判する物語になっている。


あらためて考えてみると、『蝶々夫人』はかなり「後味の悪い」作品だ。蝶々があっさり仏教を捨ててキリスト教に改宗したり、「日本の神様は聞いてくれないからダメよ」と女中のスズキに言う科白、大事にしていた十字架を最後に倒すなど、日本人の宗教意識の底の浅さがパロディのように浮き出す。栗山演出はこうした"非対称性"を前景に押し出した。蝶々の産んだ幼子が遊ぶ人形も星条旗で作られたぬいぐるみ。そして蝶々は、最後、翻る星条旗と真正面から向き合い、視線を旗に向けたまま自害する。出てきた子供は、星条旗と死んだ母の中央で立ち尽くす。


こうしてみると、なかなか思想性のある作品なのだ。二期会の『ドン・ジョバンニ』でも、翻る星条旗の下の貿易センタービルの廃墟が舞台になっていたが、あれはかなり疑問だ。9.11以降、ジョバンニの「愛が世界を救う」という奇想も理解できなかった。それに対して、『蝶々夫人』を"帝国主義の相のもとに"見ることは正当だ。歌手は、蝶々を歌った大村博美と、スズキの中杉知子が良かった。(舞台写真は↓)
http://www.nntt.jac.go.jp/frecord/opera/2004%7E2005/butterfly/butterfly.html