岡田暁生『西洋音楽史』(3)

charis2005-12-27

[読書] 岡田暁生西洋音楽史
(中公新書、05/10) 


(挿絵は、ムーサたちに囲まれるアテナ(中央左奥)。兜を被っているが、彼女は笛を創った神であり、音楽に関わる神の一人。)


岡田氏の本が面白いので、もう一回書く。氏は19世紀が専門の音楽学者。ロマン派と現代との関連の考察はさすがに鋭い。19世紀のロマン派音楽は、実は、現代の我々の「クラシック観」の原型になっており、それは現在まで続いている。たとえば、ロマン派音楽が支配的になった19世紀後半には三つの特徴がある(第5章)。(1)産業社会の自由競争の気風に伴い、「目立つキャラクター」が重視されるようになり、作曲家は「個性」を競い、「芸術家の独創性」が崇拝された。(2)バッハの「再発見」など、過去の「名曲」演奏が盛んになり、「プロの演奏家」というジャンルが成立した。誰でもチケットを買える、名曲演奏の「コンサート」が、音楽の重要な部分になった。(3)音楽の主目的が「市民を感動させる」ことに置かれ、産業社会の日常性からの解放を求めて、「幻想」や「夢」が重視された。要するに「癒し」の音楽である(p168)。


後期ロマン派が活躍した1883年あたりから、1914年の第一次大戦勃発までの30年は、「1000年にわたる西洋音楽の最後の輝きだったようにも見える」(p177)。「西洋音楽の語法は、その成立から300年近く経ったこの時代、その可能性がほとんど使い尽くされてしまったと、多くの作曲家が感じていた」(p188)。特に興味深いのはp196の挿絵である(本書はきわめて価値の高い多数の挿絵に満ちている)。同時代の雑誌などに描かれたカリカチュアだが、R・シュトラウス電気椅子で囚人を処刑している[=大音響で聴衆を痺れさせる])、マーラー(巨大なハンマーで破壊をもくろんでいる)、ドビッシー(音楽院に放火している)の三人とも、変質者か犯罪者として描かれている。


ドビッシーやラベルのような洗練の極みと目される作曲家が、意識的に軽薄さや通俗性を気取ったことも注目される(p180f.)。ドビッシーのような超精密な音楽頭脳をもつ人が、「場末の音楽」に興味を示したり、ミュージック・ホールやキャバレー音楽など、大衆文化やエキゾチズムと「芸術音楽」が接触したのも、世紀の変わり目の特徴である。


そして、第一次大戦後から現在まで。西洋音楽パラダイムはほぼ消尽されたが、上記のロマン派の三つの要素が、形を変えて継承されている。まず(1)「芸術家の独創性」を求めて、聴衆からの遊離をも厭わない「現代音楽」の前衛化。(2)バッハやモーツァルトを聞けば十分で、「現代音楽」など不要と考える「クラシックファン」のために、巨匠による名演奏のコンサートが隆盛し、レコード、CD化された。(3)大衆に「感動」を与える「癒し」の部分は、ポピュラー音楽、メロドラマ映画、カラオケ等に受け継がれた。21世紀の我々もまた、依然として「ロマン派の福音と呪縛」のもとにあるというのが、著者の診断である。