頼住光子『道元』

charis2006-01-24

[読書] 頼住光子『道元』(NHK出版、05年11月)


小冊子ながら、道元の思想の哲学的な部分をうまく浮かび上がらせた力作だ。「無自性―空―縁起」という根本教説と時間論を関連付けた後半が特に面白い。仏教においては、「もの」には固有の本質があるという日常的な世界理解をいったん「カッコに入れて」、そこから自由になることが、いわゆる「解脱」である。それは「空」の立場に立つことでもある。しかし、「あらゆるものが空であるということは、けっして何ものも存在しないとか、すべてのものは虚妄であるとかを意味するものではない」(p48)。それは、実在の世界は、無数の事象が「互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、複雑な関係を結びながら、相互相依し合って成り立つ」(48)という見方を取ることである。だからそれは、「空」の立場から世界を新しく見て取ることを意味しており、世界は日常的な分節化とは違った仕方で新たに立ち現れる。道元は、これを「現成」と呼んだ。


正法眼蔵』には、「有時」や「今」を中心とする有名な時間論が展開されているが、この時間論は、我々の日常経験と、こうした「現成」との対比をよく理解しないと、何を言っているのかまるで分らない。道元の時間論は、我々の日常の時間経験をそのまま概念化したものではなく、「空」という存在を「時として構造化する」場面(77)、すなわち、存在の全体を新しい関係性のもとに見て取る「空そのものの時間化」(105)にこそ、道元の独創がある。


たとえば、我々の常識では、時間は過去から未来へと「流れる」ものであるが、「無自性―空―縁起」の立場から存在の全体を新たに捉え直すならば、時間は流れない。というのは、時間の流れという通常の理解は、事物が因果関係に従って生起する生成消滅に対応しているのに対して、「空」の視点、すなわち存在の全体を相互依存の相の下に捉えるならば(「縁起生」)、そこでは個体の生成消滅という現象そのものが表層的理解にすぎないことが明らかになるからである。我々にとって個体的実体の生成消滅(生と死)のように思われることも、関係性の束という視点から見れば、さまざまな模様が浮かび上がりつつ交替する光の戯れのようなものであり、そこには固定的な「要素」は存在していない。だから、絶対的な意味で、生まれたり死んだりする個体的実体もまた存在しないことになる。


道元の時間論は「今」を中心とする時間論であるが、その「今」は、次々に過ぎ去る「この今」「あの今」ではない。存在の全体を相互依存の相の下に捉える「永遠の今」、すなわち「空そのものの時間化」こそ、「今」の真義なのである(105)。本書は、道元の時間論の核心を大変分りやすく提示するのに成功している。が一方では、まだ若干の課題を残しているようにも見える。たとえば著者は、道元の時間論は「主体的な時間論」であると繰り返し述べるが(93、96等)、この「主体的」あるいは「自己」という語の意味が、あまり説明されていない。存在の全体を捉える視点に立つという場合、たとえばカントならば「左右の区別」にこだわるので、どこまでも身体の視点がつきまとう。道元の場合、「自己」あるいは「主体的」ということと、存在の全体を捉える視点との関係について、もう一つ何か媒介がいらないのだろうか。それと、「縁起生」と「因果」の関係について、本書は少し説明が足りない。「相互相依し合う」ことと、「因果性」とは同じではないが無関係でもなく、西洋哲学においても「相互作用」と「因果性」の関係は、重要な哲学的争点である(たとえばカントとヘーゲル)。本書を読むと、道元が問題の所在に気付かないはずはないと思われるので、重要な論点が課題として示されたとも言えるだろう。