加藤陽子氏 朝日新聞インタビュー

歴史家でフェミニスト加藤陽子東大教授、8月1日の朝日新聞インタビューがすばらしいので、私のブログに貼りました。73歳のヘタレ・リベサヨの私ですが、彼女に学んで、もっともっと戦わなければ(!笑)。

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「今の学生は『女性だから』の理不尽に気付いている。伊藤野枝のように殉教しなくても、言葉が響く時代です」=上田幸一撮影 

 歴史学者として、日本学術会議の任命拒否問題の当事者として、そして女性として、静かに周りを見つめている。日々の出来事をメモに書き付け、読み返し、歴史に位置づけ直す。傷ついたことも理不尽な経験も。加藤陽子さん、周到に、しなやかに闘うその目線の先に何があるのですか?

 ――研究室の名札は「野島陽子」なんですね。

 「現在の戸籍名です。論文執筆時などに研究者名『加藤陽子』が確保できていれば、他はこだわらず『野島(加藤)陽子』なども使っています。もちろん選択的夫婦別姓論者です」

 「1996年に夫婦別姓を選べる法改正案を法制審議会が答申しても、与党内の多数ではない『不自然な少数』の反対で法案化できずにきた。明治憲法の実質的起草者・井上毅(こわし)が女帝を認めなかった理由は、なんと、姓が変わるからでした。反対論の根幹にある特異な歴史観を見据えた闘い方が必要です」

 「私の配偶者は予備校で日本史を教えています。彼の姓を私の姓に加えて用いるのは、大学で日本史を選択しようとする学生への参考情報になるかもしれないとの考えもありました。これまで大学に通称使用届などを出したことはありません。『悪い制度に誠実に対応しすぎない』ことが大事で、やってしまえばいいんです」

 ――アナーキーですね。昨年のNHKの番組「100分deフェミニズム」では関東大震災後、憲兵隊に虐殺されたアナキスト伊藤野枝の著作を紹介していました。

 「『乞食(こじき)の名誉』は、因習的な家庭の中で子を産み、雑誌『青鞜(せいとう)』編集にもあたっていた野枝の実感に根ざす短編です。育児や家事に追われつつ仕事をする大変さを、多くの『不覚な違算』に囲まれていると表現した。『想定外のことが続出し、思い通りにいかない』さまです。家庭のケアは女性が行うべきだとの社会的規範が昔も今も多くの女性を苦しめています」

 「一緒に出演した旧知の間柄の上野千鶴子さんには『なぜ緻密(ちみつ)で周到な加藤陽子が、粗野な運動家の伊藤野枝を選ぶのか』と不思議がられた。でも自己実現の機会を奪われてきた女性の苦しみを『不覚な違算』と看破した野枝にひかれます。自己決定権を持たない女性の姿は家族の中で見てきましたので」

 ――何があったのですか。

 「父は先妻を病気で亡くしたのですが、私の家には先妻の母、私にとって『義祖母』が同居していました。義祖母も母も辛抱強いので表だってケンカなどはありません。でも、家の中には常に緊張感がある。自分の居場所を自分では決められなかった彼女らを可哀想だと思っていた私は、小さいながらも2人の関係を取り持とうとずっと気を使っていました」

 「義祖母と母は父の意向に従うしかなかったでしょう。私が大学生になって知識を身につけ、老いた義祖母や母に向かって『自分で人生を選んでいいんだよ』と言ってみたところで、もう無理なんですよね。自己決定権の行使には賞味期限がある。義祖母や母は間に合わなかった。すみません。なんで涙が出てくるのだろう……」

 ――そういう生き方はしんどいだろうな、と?

 「ええ。自分の身の振り方を自分で決められないのは不幸だなと。また1931年生まれの母の兄弟2人は大学に進学できても、姉妹4人は行かせてもらえなかった時代でした。ならば私は、学問の力で人生の選択肢を増やしていこうと早くから決めていました。今思えば、とても優等生でしたね……」

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 ――言葉を詰まらせるほどのやるせなさが、幼少期の体験にあったんですね。

 「東大に進学してからも理不尽な壁に出くわします。20歳の時、一つ上の東大生に電車内でげんこつで殴られ、奥歯を2本折るという尋常ならざる体験をしました。また24歳で修士論文を書き終えた時には、その発表会後の懇親会の席上、一回り上の研究者から『女性はどうせ就職できないから、僕と一緒にアメリカに行こう』などと、たわけたことを言われました。どちらも、私はその場では何もできず言い返せもしなかった」

 「『奥歯男』を前にして、当時の私は『彼の友達を悪く言ったからか』だの、『母親を殴る父親を見て育った人だった』だの、頭の中では殴られた理由を列挙していたんですね。『女性ゆえにこんな目に遭う』とは考えず、不当性に思いが至りませんでした」

 「もちろん、二つの体験は心身ともに私を傷つけました。怒りを忘れないように年月日をメモしつつ、『研究教育職のポストに就けた日』『初めてアメリカを研究調査で訪れた日』なども併せて記録し、ガッツポーズを決めたりしていました」

 ――メモしているとは。

 「卒論を書いた時から今まで、ファイルに、『思いつき』『やること』などのタグをつけたカードをとじていき、読書の記録、授業準備、ニュースなどを書き込んでいます。他人のSNS上の心ない発言なども記録してあります。現在、ファイルは92冊目になりました。ファイルがいっぱいになったら、重要だと思う部分を、タグごと新ファイルへ移動させます。何冊かファイルがたまったらまた読み直し、重要性が増した部分も新ファイルへ移します」

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 ――えんま帳ですね。2020年に菅義偉政権で日本学術会議の会員への任命を拒否された件についてもここに?

 「もちろんです。20年9月9日から使い始めたファイルを開ければ、関連するタグ付きカードがすぐ出てきます。例えば『h―index』というタグがあります。論文がどの程度引用されているか調べるツールのことですが、これを用いて任命拒否された学者6人の業績を調べたらひどかった、と10月5日に書いたSNSの匿名アカウントがありました。その実名は11月9日の時点でつかんでいました。『反政府』というタグは、11月8日に共同通信が『官邸、反政府運動を懸念し6人の任命拒否』という見出しで報じた一件などを記録してあります」

 「相手を調べる、絶対に誤解をしない、軽んじない、過大評価しておく。もし闘う時が来たら絶対に負けないところまで調べ尽くして、相手の退路を断っておくのです」

 「任命拒否関係の資料はつづら三つ分ほどになりました。本来は任命拒否という内閣総理大臣の判断を支えた根拠が、その意思決定過程をも示す文書とともに明らかにされなければならない。私が専門とする歴史学は、一定の時代に現れたり、つくられたりした制度や論理が、なぜその時代に現れたのかを問う学問です。歴史学者としての私は、官邸がなぜ拒否を決断したのか大変に興味があります。だから記録と資料を残す」

 ――楽しんでいませんか。

 「得がたい経験をさせてもらっているとの高揚感はあります。政治過程論では、対立する相手方にレッテルを貼ることで自他の集団の利益が象徴的に表されるとされます。まさに今回、任命拒否された学者らを官邸側が『反政府』と位置づけた報道などに接し、現実が学問に重なる瞬間を味わいました」

 「並行して、どのような自己情報をもとに任命拒否にいたったのか、自己情報開示請求の手続きを進め、不開示とした処分の取り消しを求める原告の一人として今年2月、国を提訴しました。勝てると思っています」

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 ――東大の教員としての任期も残りわずかですね。

 「私は日本近代史の中の女性を描いてきませんでした。外交と軍事を専門としてきたからです。ただ、フェミニズムジェンダーの理論形成に寄与した人々を欧米のみに求めるのは間違いだと感じています。そこで、例えば日中戦争期以降の時期、新設されたり構成員が増えたりした市町村内の団体は女性団体だけだったことに注目し、大政翼賛会の地方支部における女性と政治をテーマにした新領域にも挑戦したいと考えています」

 「幼い頃から自分のことを『特別な任務を背負っている』人間だと気負って生きてきたせいか、過去の女性も同時代の他の女性たちをも、きちんと見てこなかった。野枝の随筆『階級的反感』は、銭湯で近所の女工たちに少し意地悪をされただけで縮こまってしまう自らの姿を描いていました。女工たちが見ている世界に入っていけない自分を責めた野枝でしたが、見てこなかったものに気付く時点から新しい関係は始まってゆくはずでした。若くして命を奪われた彼女にはその時間が許されなかったけれども。私も今、勉強しているところです」(聞き手 田中聡子、編集委員高橋純子)