『崖の上のポニョ』

[映画] スタジオ・ジブリ崖の上のポニョ』 熊谷シネ・ティアラ


(写真左は、海の中のポニョと妹たち。ポニョの本当の名前は「ブリュンヒルデ」。宮崎駿ワーグナーの『ワルキューレ』から採った。写真右は、ポニョを救う男の子、宗助。)


宮崎駿の最新作を見てきた。評価の分かれる作品だと思う。彼の最高傑作だという意見がある一方で、よく分からない作品という印象を持つ人も多いのではないか。CGを使わない手書きの絵の美しさ、動く波や海のダイナミックな迫力、魚の女の子ポニョの生命の輝き、音楽と画面の見事な融合、全篇に溢れる何ともいえない優しさなど、この映画には優れた美点がたくさんある。(写真は、魚の女の子ポニョが陸地にやってくるところ。)


だが本作は、これまでの宮崎作品とはかなり違う。物語の展開する次元が一つではなく、次元の大きく異なる諸要素が混交して物語を作っているので、分かりやすそうに見えて、実は分かりにくい。たとえば、『風の谷のナウシカ』は世界の終りにおける神話的世界を、『となりのトトロ』は郊外に住む現代の家族を、『もののけ姫』は日本の中世を、それぞれ物語の基本的な場面に設定していた。だから、たとえ奇妙な生き物や動物が出てきても、それぞれの世界は整合性と安定感を持っており、我々は安心して見ていられた。ところが、『ポニョ』には、(1)生命を産み出した太古の「海」のイメージ、(2)父に反抗して人間に味方し、最後は人間になる娘という神話的物語(父神ヴォータンに反抗する娘ブリュンヒルデ)、(3)魔法を使い、天変地異を引き起こしてしまう少女ポニョ、(4)5歳の男の子と女の子の恋ともいえない淡い恋、(5)瀬戸内海の小さな町で暮らす人々のリアルな生活描写。夫は小さな貨物船の船長、妻は軽自動車を繰って、スーパーで買い物をし、保育園とデイケア老人ホームに息子と通う、といった異質な次元がすべて一緒になっている。(写真は、崖の上の宗助の家と、宗助の母リサ。)


人名も、「宗助」は漱石の『門』から、「ブリュンヒルデ」はワーグナーワルキューレ』から、ポニョの父「フジモト」はヴェルヌの『海底二万マイル』からと、かなり恣意的に集められた。宗助の若い母親「リサ」は、ショートカットの似合う今風の美女で(どうみてもシティガール、ひなびた海辺の村には、いなさそー)、キビキビとして大胆、この映画でもっとも魅力的なキャラの女性だが、その顔立ちはナウシカを思わせる。彼女が軽自動車を荒っぽく繰って、押し寄せる大波の上を駆けるポニョとカーチェイスを繰り広げるシーンは、本作最大の見所で、ムーヴェを繰って天駆ける少女ナウシカのたとえようもない美しさを彷彿とさせる。このように『ポニョ』は、さまざまな異次元の要素が混交して、現実とフィクションが繋がっている世界、つまりガルシア=マルケスの「マジック・リアリズム」のような世界になっている。ここが、ある意味では『ポニョ』を分かりにくくしている”欠点”なのかもしれない。たとえば、大津波が押し寄せて崖の上の宗助の家以外はすべて海の下に沈み、本来なら大勢の人が死んだはずなのだが、それはどこにも描かれていない。説明もなく映画は終わるので、見る人によっては「?」という座りの悪い気持ちで、カタルシスのないまま映画館を後にするだろう。全篇、美しい映像と音楽が溢れているが、観客の想像力に訴える部分が大きいので、誰にでも「分かりやすい」映画とはいえない。もっとも、そんなに難しく考えずに、「ポニョは可愛いし、暖かくハッピーな気持ちにしてくれる」と素直に感動する人もたくさんいるだろう。(写真は、潜水艦の艦頭に立つポニョの父フジモト。)