[演劇] ディドロ『修道女』 劇団昴公演 板橋・サイスタジオ大山
(写真右はポスター。写真下は、リヴェットによる映画版『修道女』(1967)のアンナ・カリーナ(右)と、ディドロ原作の小説のコミック版。修道女シュザンヌが、上半身裸にされ縄を鞭にして自分の背中を叩く罰則を与えられる場面。)
昔、リヴェットの『修道女』を映画館で見たときには、アンナ・カリーナだけが強く印象に残っているが、今回の演劇版で、優れた作品であることが分かった。脚本は、1994年に英国の演出家フォーサイス夫妻がディドロの小説を脚色したもの。演出は村田元史。
舞台は18世紀のフランス、母の不義によって生まれた子であるシュザンヌを、両親は、本人の意志を無視して修道院に入れてしまう。シュザンヌは、修道女になる重要な手続き=儀式である修道請願を、大勢の儀式参列者の前で「ノン」と宣言して拒否する。修道院は大騒ぎになり、彼女は問題児として扱われるが、心優しい修道院長と心が通い合うようになり、シュザンヌは気を取り直して修道請願を行う。ところが修道院長は急死し、彼女の後任には冷酷な抑圧者タイプの新院長が赴任する。新院長は修道女になりきれないシュザンヌをいじめ抜き、シュザンヌは「主は何故こんなに大勢の愚かな修道女を花嫁にする必要があるのでしょう?」と公然と反抗したために、拷問に近い肉体的迫害を受ける。若い修道女たちも、多数の院長派と少数のシュザンヌ派とに分かれて、凄惨なイジメが行われる。とうとう大司教の調停が入り、シュザンヌは別の修道院に移される。新しい修道院は戒律も厳しくないのだが、そこの院長は同性愛者で、シュザンヌは肉体的な誘惑を受けて立ちすくむ。シュザンヌの拒否により、今度は院長が精神の安定を崩し、その修道院も大揺れになる。結局、シュザンヌはその修道院を脱走し、洗濯女として身を隠すが、修道女の習慣化された身体的動作が反射的に出てしまうので、脱走がばれるのではないかと不安におののきつつ、終幕。
この作品は細部がとても巧く作られており、シュザンヌという一個人を通して、18世紀フランスの女子修道院が近代社会の理念と齟齬をきたしている様子がありありと見えてくる。たとえば、シュザンヌは、修道院で迫害されながらも、修道請願の無効を求める訴訟と、修道院への持参金返還を求める訴訟との二つの訴訟を、教会外部の一般法に従って一般法廷に訴える。前者は、もしそれを認めれば多くの修道女が訴訟を起こす先鞭になりかねないという、教会に妥協した司法の日和見主義によってシュザンヌ敗訴に終わるが、一般法に訴えるという事実そのものが、教会の力の衰えを示している。特に興味深いのは、調停に入った大司教の代理による審問の場面である。修道女たちからの事情聴取によって、シュザンヌ迫害の事実と院長の管理体制の問題を理解した審問官は、シュザンヌを別の修道院に移すという合理的な解決を与えるが、彼は「あちこちの修道院で、このようなトラブルが起きている」とつい漏らしてしまい、「この審問書は一般法廷の裁判には影響を与えられない」と冷静に語る。教団内部の問題と一般法で裁かれるべき事柄とを区別しているのだ。劇団・昴の創立メンバーである稲垣昭三の審問官の演技は素晴らしい。
また、同性愛者である老院長が、悪い夢にうなされたと、深夜、シュザンヌの部屋に助けを求めて入り込み、体が冷えたなどと巧みな口実をつけながらシュザンヌのベッドに滑り込んで彼女を愛撫するシーンは、びっくりするほどリアルだ。シュザンヌを演じた舞山裕子は、入団一年目でこれが初舞台だそうだが、シュザンヌのけっして軽くないキャラクターをうまく演じた。若い修道女を演じた昴の他の若手女優陣も瑞々しいが、とりわけ三人の修道院長を演じた年配の女優たちの上手さを讃えたい。