今日のうた50(6月)

charis2015-06-30

[今日のうた] 6月
(写真は小林一茶像、東京都足立区の炎天寺の境内にある)


・ 足元へいつ来(きた)りしよ蝸牛(かたつぶり)
 (小林一茶1801『父の終焉日記』、臨終の父を看病している作者、父の「足元」なのか作者の「足元」なのか、いずれにせよ、「父を心配して来てくれたんだね、カタツムリくん」という意、「朝やけがよろこばしいか蝸牛(かたつぶり)」もそうだが、一茶らしい優しさが) 6.1


・ かたつぶり角(つの)ふりわけよ須磨明石
 (芭蕉1688『猿蓑』、「カタツムリくん、その自慢の二本の角を平等に振り分けて、須磨と明石という二大名所を差し示してごらん」、『源氏物語』須磨に「明石の浦はただ這ひわたるほど・・」とあり[前書]、「這っている」カタツムリのモニョモニョ動く角をからかった) 6.2


・ 賢明の石となるより迷妄のまひまひとなれ一生ゆたけし
 (小島ゆかり『希望』2000、「賢明の石」という意味が今一つ分からないが、角を出したり引っ込めたりして、迷いながらのろのろ進む「まいまい」(=カタツムリ)のように、自分は人生をゆったりと生きたいということか) 6.3


・ ブラジャーのエリコが泣いた放課後のチャイムはいつもより悲しくて
 (森響子・女・27歳、『ダ・ヴィンチ』短歌投稿欄、穂村弘選、「ブラジャーをいち早くしてる女子って、ちょっと神秘的です」と作者コメント、題詠は「同性」、小6か中1の頃か、女子ならではの想い出) 6.4


・ おばあちゃんのバイバイは変よ、可愛いの、「おいでおいで」のようなバイバイ
 (穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』2001、いるいる、こういうおばあちゃん、「可愛いの」がとてもいい) 6.5


・ しばらくは揺らして含むさくらん
 (黛まどか、サクランボの季節、すぐ飲み込んじゃうのはもったいない、口に含んでしばらく遊んでいる作者) 6.6


・ スリッパのまま誰ぞすててこ穿かんとす
 (大住日呂姿『埒中埒外』2001、温泉の脱衣場だろうか、「おっとっと、ついうっかりして、スリッパを履いたままステテコを穿こうとしてこけちゃった、いかんなぁ」)  6.7


・ つかみ合(あう)子共(こども)の丈や麦畠
 (垂葉堂游刀(すいようどう・ゆうとう)『猿蓑』、作者は能楽師にして芭蕉の弟子、「麦秋の熟れた麦畑の前で、男の子が二人、つかみ合いの喧嘩をしている、元気な子どもたちと同じ「丈」ほどに実った麦秋の豊かな広がり」)6.8


・ 思いきり愛されたくて駆けてゆく六月、サンダル、あじさいの花
 (俵万智『サラダ記念日』1987、この弾むような瑞々しさが俵万智の魅力、「思いきり愛されたくて」と「サンダル」がいい、「あじさいの花」も見守っている、「六月/サンダル/あじさいの花」とリズムを取る読点がうまい) 6.9


・ 「生活といふはおもしろし」答ふれば受話器のむかうの父母のひそけさ
 (米川千嘉子『夏空の櫂』1988、結婚直後の26歳の作者、電話で両親に「生活って面白いわね」と言ってしまった、思わず沈黙する両親、「翔んでる娘」を心配したのか、でも、いかにも作者らしい素晴らしい科白) 6.10


・ 愛は奪ふものなりされどかたくななまでに自立を言ひてゐたりき
 (桜木裕子『片意地娘(ララビアータ)』1992、作者は自らの恋に痛々しいほど反省を重ねる人、レギーネを愛したキルケゴールとは違うタイプだが、苦しそうに思われる歌も多い) 6.11


・ 遠き朝焼けあやめは知らず咲いてをり
 (川崎展宏『葛の葉』1973、まだ夜は暗い、東の地平がかすかに白み始めたと言えるか言えないくらいの時間、夜の闇にひたすら咲くあやめの、誰にも見えない美しさ) 6.12


・ あんずあまさうなひとはねむさうな
 (室生犀星1934、「昼下がり、あんずの黄色い実がなっているよ、でもみんな眠そうだなあ、僕も眠いなあ」、犀星1889〜1962には、娘の朝子をモデルにした『杏っ子』という小説がある、あんずが好きだったのだろう) 6.13


・ 透明を憎んで木々はこれほどにふかいみどりに繁る 見よ 見よ
 (佐藤弓生『薄い町』2010、作者1964〜は幻想的な歌を詠む人、木々は「透明を憎む」からこそ「ふかいみどりに繁る」という、木々も感情を持つのだ)  6.14


・ 贈られた紫陽花の毬手に重く愛されていることも憂鬱
 (大田美和「朝日歌壇」1990、彼氏との関係がうまくいっていないのか、紫陽花の大きな毬を彼氏に贈られたのに、あまり嬉しくない) 6.15


・ 夕風や水青鷺(あをさぎ)の脛(はぎ)をうつ
 (蕪村1774、「水辺にアオサギが静かに立っている、ちょうど立ち始めた夕風で波がおこり、脚のすねを打ち続ける」、清水孝之氏の校注によれば、「脚」ではなく、鳥にはふつう使わない「脛」と擬人化したところに、特別の風格が出た) 6.16


・ 曇る日は曇る隈(くま)もつダリアかな
 (林原来井、「赤い大きなダリアの花、晴れた日とは違って、曇りの日の花の中には、明るい光と暗い影が接する「くま」ができている」、繊細な写生) 6.17


・ 眉根(まよね)掻き鼻ひ紐解け待つらむかいつかも見むと思へる我れを
 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「君は今ごろ、眉を掻いたり、くしゃみをしたり、下着の紐が解けたりして、僕を待っているのだろうか、ああ、この僕だって、君といつ会えるかとこんなに苦しんでいるんだよ」、冒頭の三動作は恋の前兆とされた) 6.18


・ 五月雨は只(ただ)降るものと覚(おぼえ)けり
 (上島鬼貫1661〜1738、「さみだれ(=梅雨)って、つまりは、ただ雨が降るだけじゃん」、この率直な物言いが鬼貫らしい) 6.19


・ 夕ごとにかの国会に帰りゆき坐りき<戦後>育ちの臀部(でんぶ)
 (田井安曇1960年6月、60年安保闘争、デモが国会を取り囲んだ、連日、仕事が終わって夕方に国会前に戻り、座り込む「臀部」、55年後の今、日本を戦争をする国にしようとする安倍政権に反対し、再びデモは国会へ) 6.20


・ あぢさゐや真水の如き色つらね
 (高木晴子1992、作者1915〜2000は高濱虚子の五女、俳誌「晴居」を主宰、「真水の如き」色をしている紫陽花のみずみずしさ、「色つらね」がいい) 6.21


・ 窓近き竹の葉すさむ風の音にいとどみじかきうたたねの夢
 (式子内親王『新古今』夏、「夏の夜は短いわ、その短い夜にせめての慰めに見るうたたねの夢なのに、窓のそばの竹の葉が風に鳴って、眼が覚めてしまったじゃないの」、今日は夏至) 6.22


・ 見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日や眺め暮らさむ
 (在原業平古今集』巻11、「貴女の顔を見ていないとも、見たとも、言えません、牛車の簾越しにかすかに見えた貴女の美しさが僕を虜にしてしまった、ああ、今日も一日虚しく貴女の思いに耽らねばならないとは」)6.23


・ さよならと梅雨の車窓に指で書く
 (長谷川素逝、汽車で誰かを見送るとき、窓ガラスに「さよなら」と指でなぞったのか、作者1907〜1946は虚子に師事、結核を患っていた、この句もどこか寂しげなところがある) 6.24


・ 夕焼のうつりあまれる植田かな
 (木下夕爾、田植えが終わったばかりの田が「植田」、まだ細く小さい早苗ばかりなので、水面一杯に溢れるように夕焼けが映っている) 6.25


・ 土くれはどんな味する燕の子
 (正木ゆう子『悠』1994、「燕の巣は泥で出来ている、そこで育っている元気な子つばめたち、泥の巣もつついているけど、どんな味がするの?」、子つばめたちの生き生きした姿を面白い着眼点から描いた) 6.26


・ ぐずぐずと晴れねば女梅雨(をんなづゆ)といふ 言ひしはつまらぬ男なるべし
 (小島ゆかり2000、「女」の付く漢字も挙げてみよう、嫌悪、嫉妬、奴隷、嬌態、奸智、妨害、妄想、妖怪、姑息、姦通、媚態、貪婪・・・、ネガティブな意味の字が多くないか、漢字も「つまらぬ男」が作ったか) 6.27


・ 「スペインに行こうよ」風の坂道を駆けながら言う行こうと思う
 (俵万智『サラダ記念日』、彼氏が言ったのだろう、それを嬉しく、しかし黙って受け止める作者、「行こうと思う」というクールな返しがいい、「わーい、行く、行く」とはしゃぐのではなく) 6.28


・ かたちなき思慕分かちては暗室に分光器(プリズム)のぞく瞳と瞳
 (栗木京子『水惑星』、作者は20歳の京大理学部学生、恋が芽生えた頃の歌、「私も彼も大学の暗室でそれぞれプリズムを覗いている、でも私は彼のことを思ってしまうわ、彼も今、私のことを思いながらプリズムを覗いているのかな」) 6.29


・ 禅堂へ入(はひ)らむ蟹(かに)の高歩き
 (飴山實『花浴び』1995、「小さな蟹が脚を精一杯伸ばして、堂々と禅堂へ入ってゆく、うん、君は小さいけれど、志の高い蟹なんだね」、結句「高歩き」という表現が卓越) 6.30