D.ジャンヌトー演出、『ガラスの動物園』

charis2018-10-28

[演劇] テネシー・ウィリアムズガラスの動物園』 東京芸術劇場 10月28日


(写真右は、引き籠りの少女ローラが、高校で片想いだったジムとつたないダンスを踊るシーン、下は、ローラのタイプ用紙を破る母アマンダ、手前はガラスの動物たち)

ガラスの動物園』は私のもっとも好きな演劇作品の一つなので、東京で上演されるときは必ず観る。今回は、フランス人がフランス語で演じる現代アート風の舞台。原作のリアリズムによる舞台装置を廃し、抽象的なほとんど何もない空間で演じられる。アメリカの労働者階級の家族劇なので、チープな感じのアパート室内という舞台装置が必須と思っていたが、完全に抽象化した現代演劇としても『ガラスの動物園』はやはり美しい。原作は科白がやや説明的なので、この舞台のように科白を三分の一くらいカットしたのはよかったのかもしれない。20世紀演劇は、チェホフに見られるように、愛を求めても得られず、寂しく生きていかねばならない人々を執拗に描いてきた。『ガラスの動物園』はその極限のような作品だ。少し足が悪く、極端に内向的で引き籠りの少女(といっても23歳)ローラが、高校時代に片想いだった青年ジムを、結婚相手にどうかと、家族によって強引に偶然引き会わされる。激しく動揺して気絶するローラ。ローラと二人だけになったジムは、ローラが自分に自信を持つように、必死に励ます。だが、ジムにはすでに婚約者がいた。激しく失望するローラと家族たち。これだけのストーリーだが、非常に普遍性のある主題ではないだろうか。人は、自分にある程度自信がなければ恋愛そのものができない。非正規社員で僅かしか収入がない青年や、自分の身体や容貌に強い劣等感をもっている男女は、恋愛という舞台に乗ることにためらいを感じるのではないか。そしてまた、家族愛とは本当に存在するのだろうか。家族といっても心が本当に通い合っているわけではなく、一人一人は孤独なのではないだろうか。子に対する親の愛は、とても独りよがりなところがあって、子は迷惑しているのではないだろうか。こうした問題を、一気に極限まで突き詰めたのが『ガラスの動物園』である。現代アート風にすることによって、この舞台は、わずかに不条理劇の要素を帯びることになった。母アマンダの独りよがりぶりが、ほとんど狂気すれすれに感じられるほどに誇張されていることや、ローラより年下のはずのジムが、中年のオジサンになっていることである。写真下↓は、アマンダ(右)の滑稽さに当惑するジム。

ローラがジムと二人きりになる最後の場面は、この世に数ある演劇のなかでも、もっとも美しく、切ないシーンの一つだと私は思う。テネシー・ウィリアムズは、ト書きにこう書いている、「その出来事はつまらないことのように見えるが、実はローラにとってはそのひそやかな人生のクライマックスなのである」。ローラだけではなく、我々のほとんどの人生は、ひそやかで寂しいものである。ローラがジムに再会したことで、彼女は恋愛ができるまでに自信を回復するだろうか? それとも、トムも姉ローラを捨てて家出してしまった後、彼女はますます引き籠りになって、ガラスの動物たちと遊ぶだけの寂しい人生を生きるのだろうか? それは分からない。ジムとの再会が「ローラの人生のクライマックス」だとすると、彼女の人生には、もう男性との出会いはないということなのか。本作は決してハッピーエンドではないのだ。だが、希望がまったくないわけではない。ローラに愛が再生することを、我々はただ、ひたすらに祈る。しかし、この祈りは希望に賭ける祈りだから、我々にとって喜びである。最近みた『魔笛』で強く感じたように、愛はやはり恩寵であるのかもしれない。


PS: 森岡実穂氏のブログを読んで気付かされたのだが、本作は、トムの回想として過去形になっていることが重要である。現在進行形ではないのだ。つまり、トムは姉を捨てて家出したことを後悔している。だから過去形なのだ。劇中でもすでにトムが電気代を払わずに停電していたのだから、家賃を払っているトムが家出することは、残された二人は生き行けないことを意味する。ローラは自殺して、もうこの世にいないかもしれない。トムがそれを知らないだけで。