ワーグナー『ワルキューレ』

charis2009-04-13

[オペラ] ワーグナーワルキューレ』 4月12日・新国立劇場


(写真右は、王妃フリッカ(ツィトコーワ)を慰めるヴォータン(ラジライネン)。写真下は、第一幕冒頭、フンディングの家。舞台を上下から刺し貫く象徴的な「矢」。上の矢はトネリコの木で、神剣ノートゥングが埋め込まれている。また、人体より大きなテーブルと椅子の使い方が巧い。もう一つは、第三幕冒頭、ワルキューレたちが結集するワルハル城はサイレンの鳴り響く病院の緊急室。ヴォータンに追い詰められるブリュンヒルデ(ネーメット、手前)。)

キース・ウォーナー演出の『ワルキューレ』は7年前の再演だが、これほど素晴らしい舞台が日本で上演できるとは驚きだ。バイロイトには及ばないにしても、ヨーロッパの一流歌劇場に近い水準ではなかろうか。もっとも主要歌手は全員が声量豊かな外国人だから、日本人による上演とは言えないが。ジークムント(ヴォトリッヒ)もジークリンデ(セラフィン)も、若々しく力強い。オケは、エッティンガー指揮の東フィル。


エロス的なものが崇高なものと分かちがたく結びついているのが、ワーグナーの魅力の源泉だ。エロス的な音楽という点では『トリスタンとイゾルデ』の右に出るものはないとしても、それが崇高なものと結びついているのは、何といってもこの『ワルキューレ』だと思う。万物の創造者である神が、自らの作った作品である人間に反逆され、人間に乗り越えられるという、『ヨブ記』にも匹敵するテーマが『指環』の主題であるが、人間に反逆され乗り越えられるその核心部分が、ジークムントとジークリンデ兄妹の性愛と、ヴォータンとブリュンヒルデ父娘の愛という、激しくエロス的なものによって遂行されるのが、まさに『ワルキューレ』なのである。フロイトバタイユが描いてみせたように、我々の社会生活の中では、”性的なもの”は上手に管理され、丸め込まれる。我々が性について語るとき、そこにはどうしても照れや笑いが伴わないわけにはいかない。だが、照れや笑いとまったく正反対の極地、すなわち神的なものにまでエロスが昇華するのがワーグナーの世界なのである。


「結婚の誓約=神聖性を犯したジークムントとジークリンデを成敗せよ!」と、「掟」と「契約」を盾に激しく迫る王妃フリッカに対して、世界の秩序を司るべき主神ヴォータンは抵抗できない。正妻の正論の前では、好色の神ヴォータンも、弱々しいただのオヤジにすぎない。一方、父の意志がそのまま自己の意志でもある「父の娘」ブリュンヒルデは、父の命令を遂行するために、ジークムント征伐に向かい、彼にジークリンデを棄てるように説く。「この女が、英雄のあなたにとって、すべてであるはずがない」と。だが彼は、「妹ジークリンデを抱くことができないなら、たとえ神々に伍して列せられるとしても、私はワルハル城に行かない」と拒絶する。人間が神に反逆した瞬間である。だがその反逆は、それだけでは終わらない。「父神の忠実な娘」ブリュンヒルデの内に、彼女が生まれて一度も持ったことのない感情、すなわち「彼女自身の意志」を生み出すからである。それは、彼女がそう考えて選んだのではなく、瞬時に、無意識に、彼女の内に起きた奇跡のようなものである。死のうとする二人の純愛の前に、彼女はとっさにジークリンデをかばってしまう。(写真下)

だが、ブリュンヒルデが自分の意志を持つこと、つまり、彼女が人間らしい一人の主体になることは、皮肉にも、彼女から神性が剥奪され、彼女が人間に「降格される」ことを意味した。神によって創造された人間の内に自由意志が芽生え、神に反逆するという壮大な物語は、ジークムント・ジークリンデが神の娘に反逆 → 神の娘ブリュンヒルデが父へ反逆 → 父の怒りによって神の娘が人間の娘にされる、という複雑な過程になっている。このような神の人間化を『ヨブ記』→『福音書』に類比するならば、ヨブがヤハウェに反逆してから約700年後に、神は「人間にならなければならなかった」。イエスという名の人間に、神がなったのである。イエスにはエロスがまったくないが、ワーグナーでは、神の人間化が「愛=エロスによる救済」として遂行される。ブリュンヒルデは「私は、お父様が愛した者を愛しただけです」と歌い、ヴォータンは「娘よ、お前に求婚する者は、神である私より自由な男だけだ」「お前の可愛い瞳よ、未来の人間の夫に向かって輝いておくれ」と歌う。そして二人が抱き合って泣くとき、我々はそこに神ではなくまぎれもない人間の姿を見ているのである。(写真下は、愛馬グラーネの前で悲しむ父娘と、炎の中に娘を封じ込める父。写真はすべて、産経新聞電子版に掲載された新国立劇場の映像を借用しました。)