[文楽]「阿古屋琴責の段」、井上ひさし『金壺親父恋達引』他

[文楽]  『壇浦兜軍記』「阿古屋琴責の段」、井上ひさし『金壺親父恋達引』他 江東区文化センター 12.10

(写真↓は、文楽でも屈指の名場面の一つ、「阿古屋琴責(ことぜめ)の段」で胡弓を弾く遊女阿古屋[左]、あまりに音色が美しいので、阿古屋を拷問せよと言っていた小役人の岩永も弾く真似している[右]、人形遣い桐竹勘十郎)

 朝11時から夜9時半まで「通し」はキツかったが、すべてを観た甲斐があった。井上ひさし『金壺親父恋達引』は、ほぼモリエール守銭奴』の原作通りだが、よくできた喜劇になっている。文楽の人形は(能の面と違って)表情豊かなので、喜劇も表現できるのだ。『壇浦兜軍記』「阿古屋琴責の段」は初見だが、その美しさに圧倒された。特に、琴、三味線、胡弓の三つの楽器を阿古屋が弾くシーンは、音が(太夫の横からではなく)阿古屋の指先から聞こえるかのような錯覚に陥る。それほど人形が生きているのだ。胡弓という楽器がこれほど美しい音を出すことを初めて知った。三者演奏シーンは、最高の美が音楽で表現されているという点で、モーツアルトのオペラを想起した。(下↓は、琴と三味線を弾くシーン、そして楽器としての胡弓)

曽根崎心中』は、1955年に復曲されたもので、太夫の科白も野澤松之輔が直して近松原作とはかなり違うことを、今回初めて知った。私は、近松作品の核心は、自然的傾向性としての愛と倫理としての愛とに引き裂かれながらも、両者を何とか統一しようとして、もがき苦しんで死んでいく人間への愛おしさ・共感にあると思うので、たとえば『曽根崎心中』終幕のお初の科白を、下記のように短縮したのでは、やや弱くなってしまうのではないか。お初が父母兄弟に自分が先に死ぬことを詫びるこの箇所が、『曽根崎心中』のクライマックスだと思うので。

 

 [近松原作] 「こな様はうらやましや、冥途の親御に逢はんとある、我らが父様母様は健(まめ)で此の世の人なれば。いつ逢ふことのあるべきぞ・・初が心中取沙汰の、明日は在所へ聞こえなば、いかばかりかは嘆きをかけん。親たちへも兄弟へもこれから此の世の暇乞ひ、せめて心が通じなば夢にも見々(みみ)えてくれよかし。なつかしの母様や、なごり惜しの父様や」と、しゃくりあげあげ声も惜しまず泣きければ、夫もわつと叫び入り・・・

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 [今回の野澤松之輔版] 「こなさんは羨ましい。私が父様母様はまめでこの世の人なれば、いつ逢ふことの情けなや、初が心中取り沙汰を、明日は定めて聞くであろ。せめて心が通ふなら、夢になりとも見てくだされ。これから此の世の暇乞ひ、懐しの母様や、名残惜しやの父様や」と声も惜しまずむせび泣き。 [原作の「いかばかりかは嘆きをかけん。親たちにも兄弟たちにも」や、「夫もわつと叫び入り」はない]。