野田秀樹『ロープ』

charis2007-01-27

[演劇] 野田秀樹『ロープ』 渋谷コクーン

(写真は、ソンミ村虐殺事件。犠牲者504名のこの名簿が↑、『ロープ』の最後に大きく映し出される。)

野田秀樹の舞台は、多くの素材が重層的に重ねられて物語が成立している。最新作の『ロープ』は、1968年、ベトナムにおけるアメリカ軍のソンミ村虐殺事件と、現代日本のプロレスの場面とを平行させることによって、”ゲーム化した現代の戦争”を批判する。


この劇は、古典的な一幕一場、すなわち、ロープを張ったプロレスのリングを前に行われる(といっても、例によって、時空を駆け巡る野田ワールドだが)。話は、プロレスが八百長であることを信じない純情なプロレスラー「ヘラクレス・ノブナガ」(藤原竜也)が、引きこもっているところから始まる。この「引きこもり」は象徴的だ。なぜなら、リングの下には、「コロボックル」の一員を自称する不思議な少女「タマシイ」(宮沢りえ)が棲み付いており、アイヌ神話の小人「コロボックル」もまた、人前から姿を隠して「引きこもる」とされているからだ。この不思議な少女「タマシイ」は、物語のヒロインかつ主人公であり、彼女は、プロレスの実況中継と同時に、ソンミ村の虐殺をリアルタイムで実況中継するアナウンサーでもある(この部分はフィクションではなく、野田は、ソンミ虐殺の記録に基づいている)。いつもは「引きこもって」いるのに、試合や虐殺場面では「熱く絶叫する」のだ。


そして、プロレスの試合はいつも、隠し撮り専門の怪しげなテレビ中継チーム(野田秀樹渡辺えり子など)がさらにそれを撮影するという、メタ構造になっている。つまり、実況中継するアナウンサーの少女「タマシイ」を、さらにいかがわしいマスコミが中継するのだ。これは、イラク戦争など現代の戦争における、侵略者の意図に沿った”従軍報道”のメタファーでもある。物語は、プロレスリングでの「顔の無い覆面」レスラーたちの八百長興行がゲーム感覚で面白おかしく中継されるうちに、次第に「より強い刺激を求める」視聴者の要求によって、リングの「流血」が日常化されてゆく。そして、ゲーム感覚のうちに流血が日常化されることこそ、流血のリアリティと苦しみをあたかもヴァーチャルなものであるかのように希薄化し、現代の戦争報道をゲーム感覚化するものなのだ。『ロープ』の舞台で何度も叫ばれる、「現場からの声をお届けします!」というレポーター中継は、当事者性の「演出」という問題を提起している。


本来、流血はどこまでも当事者にとってリアルなものであり、決してバーチャル化されない。物語では、優しい「引きこもり」青年のレスラー「ヘラクレス・ノブナガ」が最後に当事者意識に目覚めると同時に、「引きこもり」少女の「タマシイ」もまた、アナウンサーとして当事者のリアリティの側にいることが明らかになる。二人の「引きこもり」の若者は、凄惨な戦争にもかかわらず、現代の我々に残されたかすかな希望と救いの象徴なのだ。不思議な少女は、ソンミ村で虐殺された臨月の若い妊婦の「タマシイ」だった。彼女が死の直前に産み落とした赤ん坊が未来の人類として生き延びて行く。彼女は、最初にプロレスリングの下から姿を現したときから、「私は未来から来たの、私の故郷は未来」と謎の台詞を繰り返す。これはきっと、ソンミ虐殺の「未来」を生きる我々の、「顔をもつ」死者たちとの鎮魂と交感の祈りを意味しているのだろう。同時にその「みらい」は、ソンミ村の一地区の名称「Mylai」なのかもしれない。


どこまでも透明で少年のような少女を演じた宮沢りえは、とても美しい。 そして、あの細い体であれだけの分量の台詞を絶叫するエネルギーに脱帽(全体の1/3を一人でしゃべるハムレットに比肩)。俳優はよく頑張った。抜群にうまかった渡辺えり子、いつも「照れながら」しかしゃべれない野田秀樹も、まぁよかったよ。しかし野田の本領は、蜷川も言っているように、役者ではなく、戯曲創作者としての天才にこそあるのではないか。


ソンミ村虐殺事件の写真他は、吉川勇一氏のブログより借用。↓
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/Son%20My/Part2.htm#2.
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/saikin25Mylai-Yukijirusi.htm