[オペラ] H・ゲッツ作曲『じゃじゃ馬ならし』 新国立劇場中ホール
(『じゃじゃ馬ならし』は多彩なバージョンがある。写真右は、2004年、アメリカでのシェイクスピア劇上演。写真下は、ジョン・クランコ振り付けのバレー版(2002年アメリカ)。どちらも左端がじゃじゃ馬娘のカタリーナ。そういえば、ミュージカルの『キス・ミー・ケイト』も『じゃじゃ馬ならし』だ。)
シェイクスピアの原作をドイツの作曲家へルマン・ゲッツ(1840-76)がオペラ化したもの(1874)。ゲッツは、日本ではほとんど知られておらず、本作は日本初演。日本オペラプロデュースの企画。『じゃじゃ馬ならし』はシェイクスピア初期の喜劇だが、問題作ともいえる。気が強くて手の付けられないじゃじゃ馬娘のカタリーナが、求婚者の粗野な男ぺトルーチオによって暴力的に力ずくで「調教され」、すっかりおとなしい従順な女にされて、結婚するという物語。19世紀以来、女性蔑視ではないかという批判もくすぶっている。
じゃじゃ馬娘が暴れるというのは、それだけでも面白い喜劇になるが、シェイクスピアの狙いは、ある方向に偏った性格を直すには、その方向にさらに大きく偏った人物をぶつけるのが有効だという点にあるようだ。毒をもって毒を制すということ。カタリーナは、大富豪の娘で、美しいが、我儘で、気が強く、誰に対してもアグレッシブな嫌われ者。優しく穏やかな男性が、彼女と交際することなど不可能だ。だが、彼女に求婚したペトルーチオは、大柄で豪腕、粗野で、横暴で、権力的な男。彼の前ではカタリーナのじゃじゃ馬ぶりなどまったく無力で、霞んでしまう。彼はカタリーナを力ずくで抱きしめ、有無を言わせず、カタリーナの父親と契約を取り交わして結婚に持ち込んでしまう。結婚式当日にペトルーチオはすっぽかして、花嫁に屈辱を与え、その後も、食事を与えなかったり、仕立て屋の持ってきた衣服を投げ捨てるなど、徹底的にカタリーナをいじめる。ところが不思議なことに、カタリーナは次第に従順になり、ペトルーチオを好きになっていくように見える。最後は、「今までの私は高慢で間違っていました、忘恩を悔い、これからは主人に仕えます」と宣言して、終幕。
カタリーナがなぜペトルーチオを好きになるのか、その理由や必然性がよく分からず、転換点になるようなエピソードもない。カタリーナは自分の内面の心理を語らないので、いよいよ彼女の真意は分からない。軟弱な男ではなく荒っぽい男に惹かれることは、ありそうなことではあるが、そこを何も説明しないのがシェイクスピアの原作である。ところが、ゲッツ版のオペラでは、カタリーナとペトルーシオの関係が大きく変えられている。第二幕の終りで、突っ張っているはずのカタリーナは早くも「内面的に砕けて」、ぺトルーシオへの愛を傍白で歌ってしまう。それだけではない。終幕で種明かしがなされ、ペトルーシオの横暴な態度は実はまったくの演技であり、カタリーナの性格を変えさせるための芝居だったことが明かされる。ペトルーシオは本当は優しい青年で、愛するカタリーナのためにあえて悪役を演じたのだ。終幕は、従順な女に蘇ったカタリーナとペトルーシオとの愛の二重唱が高らかに歌われる。ゲッツ版は、このような予定調和として『じゃじゃ馬ならし』を再構成する。しかしこれは、シェイクスピア原作のもつ毒を抜いて、目出たし目出たしの物語にしてしまったともいえる。ゲッツは、初演でカタリーナを演じた歌手への手紙で次のように述べている。
>[第2幕第4場で、カタリーナがペトルーチオへの愛を傍白するシーンは]このオペラ全体でもっとも重要な場面です。・・・この瞬間から彼女は内面的に砕けたのです。彼女が人生で経験する初めての強力な抵抗が、彼女に途方もない印象を与えます。たしかに彼女は、まだしばらくは身を任せはしませんが、しかしペトルーチオは、無敵の軍司令官のごとく不屈にその目標に近づいていきます。彼女は抵抗にもかかわらず抱擁され、キスされるはめになる。まさにこの確固不動の男性意志のために、彼女は意思に反してシンパシーを抱かずにはおれなくなるのです。(プログラムノートp8)
「確固不動の男性意志のために、彼女は意思に反してシンパシーを抱かずにはおれなくなる」というのは、いかにもオヤジ的な分かりやすい解釈だが、それを傍白の形でカタリーナに歌わせてしまっては、「語るに落ちる」というものだろう。ゲッツのオペラ版は、たしかに音楽は美しいし、3時間近い立派なオペラになっている。だが、ペトルーチオの行動を演技とするなど、我々が受け入れやすいように説明することによって、シェイクスピアならではの毒がなくなり、気の抜けたものになったことも事実である。