エンデ『モモ』

charis2009-01-06

[読書] ミヒャエル・エンデ『モモ』 (岩波少年文庫)


(写真は、一柳慧作オペラ『モモ』1998のポスター原画、山本容子絵。モモの手の先が「時間の花」になっている。右下は亀のカシオペイア。浮浪児の少女モモが世界を救うには、もっとも歩みの遅い亀の助けが必要なのだ。)


30年前に読んだときには、「時間泥棒」や「時間貯蓄銀行」という発想の面白さと、時間にせかされて忙しく立ち働く人間の貧しい姿が印象的だった。しかし30年後に再読してみると、今は、時間が人間を内面的に管理する仕方がますます巧妙で多様になり、『モモ』の物語にいっそう大きなリアリティが感じられる。たとえば「リスクを管理する」という「金融工学」の手法は、それなりに洗練された「時間泥棒」の一形態といえるだろう。そもそも、他人に先んじて「差異」から利潤を生みだすのが、遠隔地貿易から発生した資本主義の本性である。モノや労働力の価格の差だけでなく、生活習慣、制度、文化の違いや、欲望と現実の差異などから「需要」を喚起して、そこから利潤を得るのだが、利潤が得られると分かれば参入者もどんどん増えるので、始めにあった「差異」は急速に埋まって利潤の源泉は枯れてゆく。だから資本主義は、つねに新たな「差異」を求めて転戦しつつ、その差異が消失するまでの「時間差」から利潤を得るのである。


このようにみると、現代の我々は、時間を盗む側にもなり、盗まれる側にもなっていることが分かる。『モモ』では、時間泥棒つまり「灰色の男たち」は、人間自身が作り出したものである(p225)。時間泥棒は、人間の外部から来る敵ではなく、人間の欲望が一つの姿を取ったものなのだ。アメリカでは国民の半分が株の投資家だそうだが、時間差から利潤を得ようとすること自体は、不当な動機というわけではない。そもそも貯金の利子だって、時間差から利潤を得ている。『モモ』では、「灰色の男たち」は時間貯蓄銀行の勧誘員として現われ、人々に「時間を有効に使う」ことを薦める。生活や生産を「効率化」すれば「時間が浮く」から、その浮いた時間が自動的に時間貯蓄銀行に貯蓄され、将来は利子がついて戻ってくるという(100)。だが、この勧誘は結局は詐欺であり、貯蓄された時間は「灰色の男たち」の生命維持に使われてしまい、「時間を有効に使って」貯蓄した人々には戻ってこない(154)。『モモ』は、時間をつい貨幣のように扱ってしまいがちな我々の錯覚に注意を促し、それに大きな疑問を突きつけているのだ。「貨幣を有効に使う」のと類比的に「時間を有効に使う」ことの何が問題なのだろうか?


貨幣はそれ自体として使用価値があるのではなく、何か他の使用価値のあるものと交換するためにのみ存在する。『モモ』では、時間もまたそのようなものとみなされている。「灰色の男たち」は、モモを寝返らせようとして、次のように恫喝する。「お前はひとりぼっちで、友達はお前の手の届かないところにいる。お前は時間を分けてやろうにも、もう誰も相手がいない。・・・たった一人であり余るほど時間をかかえていても、今のお前には何になる? ・・・いつかは、お前が耐え切れなく時がくる。明日か、一週間さきか、一年さきか。我々にはそれがいつだって同じことだ。待っているだけでいいんだからな。」(333) 時間を持っていても使い道がなければ、それは、買うものもなく貨幣を持っているのと同じことだ。「灰色の男たち」は時間=貨幣モデルを使ってモモを恫喝している。たしかにこの恫喝は、友達と楽しく遊び、語り合うことが時間の最高の使い途であるモモの急所を突いている。だが、モモがこの恫喝に屈せず、寝返らなかったのは、彼女が時間=貨幣モデルに組していないからなのである。


時間は本来、一人一人の人間に「固有の」時間として存在するものであり、それが「生きた時間」である。個人から切り離されて時間貯蓄銀行の地下金庫に冷凍保存されれば、それは仮死状態になってしまう。最後の場面で、モモが地下金庫に保存されている時間たちを解放すると、時間たちは、春の嵐に舞う花びらのようになって、それぞれの個別的な「持ち主」のところへ飛んで帰る。つまり、時間はどこまでも個々人に属する「固有性」を失わない。貨幣があくまで、もろもろの使用価値に対して外的な、純粋交換価値であるようには、時間は純粋交換価値にならない。だから、「貨幣を有効に使う」ように「時間を有効に使う」ことはできないのだ。


「灰色の男たち」は、人間の時間をどんどん奪い、その量的な集積が権力になると思い込んでいる。たしかに時間=貨幣モデルで考えればその通りだろう。「人間の時間を手中におさめれば、無限の権力を握ることになる!」(207) だが、彼らは大きな誤解をしている。時間はたしかに「権力」であるのだが、しかし、時間が権力であるその在り方は、貨幣が権力であるのとは根本的に違っている。貨幣の力は「何でも好きなものと交換できる」という、その交換可能な外面性にある。それに対して、時間の力は、個々人の「人生を仕切る」という点にある。個々人の人生を、乳児期、幼児期、子供期、少年期、青年期、壮年期、老年期などに「仕切る」のが、時間の奥深い権力性である。したがって時間は、一人一人に「内属する」ものであり、個人から切り離せないものなのだ。時間の神であるマイスター・ホラは、モモの、「まあ、あなたが時間を作っているの?」という問いに、こう答える。「いや、そうではない。私はただ時間をつかさどっているだけだ。私のつとめは、人間の一人一人に、その人のぶんとして定められた時間を配ることなのだよ。」(235) これは重要な、しかし微妙な科白と言うべきだろう。もし、ここで言われる「その人の分として定められた時間」が量的な時間であれば、それは、いわば貨幣のように誰にでも無差別に与えられる抽象的な時間になるだろう。だが、「その人のぶんとして定められた」という意味が、最初から個々人の刻印を持っている時間、その人にふさわしい、その人だけの時間を意味するならば、それは銀行に預けたりできない本来の「生きた時間」になる。


マイスター・ホラが、後者の意味で言ったとすれば、時間は、『モモ』の最終章のように、一人一人の手に戻る。だが、それで問題が最終的に解決されるということではない。個々人に取り戻された時間もまた、個々人の人生を分節し、それぞれの時期に意味を与える「権力」であるからだ。そのような時間と、我々はどこまでも付き合わなければならない。しかし自分だけの時間なら、自分でそれを「引き受ける」ことができるし、その「引き受け方」に可塑性があることが、おそらく人間的時間の本質なのだろう。その「引き受け」によって、「運命」というものが、あたかも対等な友人と遊ぶようなものになるならば、それがもっとも望ましい。『モモ』は、そのような哲学的な議論をしているわけではないが、物語が、古代の円形劇場跡でモモが子供たちと遊ぶところで始まり、遊ぶところで終わるのは示唆的だ。それは、「運命」を「遊び」に変えることを教えているのではないだろうか。