(写真右はポスター、写真下は2007年11月Theater an der Wienの舞台)
バロックオペラはあまり日本で上演されないので、貴重な機会だった。もっとも『騎士オルランド』(1782)は、厳密にはバロックオペラではなく、バロックオペラの終わりを示す作品だろう。私は、ヴィヴァルディの『怒れるオルランド』(1727)やヘンデルの『オルランド』(1733)を見たことがないので、この作品がどの程度伝統を踏襲しているのかは分からないが、中世の英雄物語、魔女、恋のもつれ、コロラトゥーラ・ソプラノの誇示など、バロックオペラの特徴をたくさん備えている。とはいえ、ハイドンが自分でこの作品を「英雄喜劇」と呼んだように、全体は面白おかしい喜劇になっている。すぐ切れる騎士オルランドは、自分が片思いしている女王アンジェリカがひ弱な男メドーロと相思相愛と聞いて激怒、アンジェリカを奪おうとするが、魔女のアルチーナにことごとく邪魔される。魔女はオルランドを石に変えたり、また蘇らせたりして弄び、最後は「忘却の水」をオルランドに掛けて、彼のアンジェリカの記憶をなくしてしまう。荒れ狂う騎士オルランドは、羊のようにおとなしい男に変えられてしまい、アンジェリカとメドーロはめでたく結婚して、終幕。
この作品で目を引くのは、喜劇的キャラクターの素晴らしさである。主人であるオルランドには パスクワーレという従者がいて、このパスクワーレは、ドンキホーテに対するサンチョパンサ、ドンジョバンニに対するレポレロのような位置にある。パスクワーレは、軽薄ですぐ舞い上がる楽しい男で、物語のほとんどの場面に出入りする道化として、舞台回しをしている。その意味では、『魔笛』のパパゲーノのようでもある。それだけではなくこの道化は、コメディア・デラルテの典型キャラであるアルレッキーノの伝統も引き継いでいる。アルレッキーノは、パートナーとして、頭の切れる女中コロンビーナを伴っているが、『騎士オルランド』でコロンビーナに相当するのは、羊飼いの娘エウリッラである。伸びやかで賢い娘エウリッラは、物語の全体に出入りする舞台回しという点で、『フィガロ』のスザンナを思わせる。このように見ると、オペラの喜劇をつくる素材というのは意外に限られており、モーツァルトのオペラも、たくさんのキャラクターを伝統から引き継いでいることが分かる。
『騎士オルランド』の初演時、モーツァルトは26歳だから、この作品はバロックオペラとモーツァルトを繋ぐちょうど中間にあるように感じられた。女王アンジェリカの恋人メドーロはなんとも退屈なつまらない男で、『魔笛』のタミーノや『ドンジョバンニ』のオッターヴィオとよく似ているし、魔女アルチーナの外観はまったく「夜の女王」である。私は『騎士オルランド』を初めて見たのだが、幕の終わりの重唱の美しさなども含めて、あちこちに既視感を感じるのは、モーツァルトの各場面を投影して見てしまうからだろう。本作では、明らかに、従者パスクワーレと羊飼いの娘エウリッラが際立って輝いており、彼らこそが本当の主人公であるように思える。第二幕の二人のデュエットは、たとえようもなく美しいだけでなく、二人がそれぞれ棒を手にしてオケを指揮するという面白いシーンがあり、ハイドンがこんなに素晴らしい音楽を付ける人だとは知らなかった。ハイドンとは、モーツァルトから色気と艶を抜き去った、機械のようなリズムの人とばかり思っていたが、そんなことはないのだ。指揮は寺神戸亮、オケは古楽器を使うレ・ボレアード、演出は粟國淳。パスクワーレ役のルカ・ドルロドーロは実に適役だった。エウリッラ役の高橋薫子は、12月の新国『ドンジョバンニ』ではツェルリーナを歌うから、やはりキャラに共通性を感じる。
PS:舞台の写真があったので、上演のフォルテピアノ調律を担当された梅岡俊彦氏のブログより借用させていただきました。