新国『パルジファル』

charis2014-10-05

[オペラ] ワーグナーパルジファル』 新国立劇場 10月5日


(写真右は、聖杯城のシーン、右側からナイフのようにせり出した板の上に横たわっているのが、傷ついたアムフォルタス王。写真下は、順に、パルジファルとクンドリー、パルジファルを色仕掛けで誘惑する娘たち、アムフォルタス王とその父王)



ワーグナーが死の一年前に上演した最後のオペラ。日本ではこれまで6回しか上演されたことがないという。ちょうど二年前のクラウス・グート演出の二期会公演は、場面を第一次世界大戦直後に設定する意欲的な現代的演出だった。今回のハリー・クプファー演出は、神話を神話として表現しながらも、斬新でスタイリッシュな素晴らしい舞台だった。クプファーといえば、1991~2年のバイロイト音楽祭の『指輪』が名高いが、今回も光をうまく使った空間造形の見事さに圧倒された。曲線の「梁」のようなものが張り巡らされた聖杯城の中に、空間を真横から鋭角的に切り裂くナイフのようなものが突き出され、それが自在に動き回る。


物語がきわめて分かりにくい作品だが、「共苦によりて知にいたる、けがれなき愚者」である青年パルジファルと、磔にされるイエスを笑ったために罰せられ、死ぬことも許されず世界を転々とする魔性の女クンドリーという、二人のユニークな人物が主人公となる「救済の物語」。第二幕後半の、クンドリーのパルジファル誘惑が失敗する場面はクライマックスで、とても感動的だった。娘たちの色仕掛けの誘惑には落ちなかったパルジファルだが、彼の母ヘルツェライデの愛を巧みに語るクンドリーの誘惑には抵抗できず、彼女の接吻をパルジファルは受けてしまう。だが、接吻を受けた瞬間、彼には「共苦の痛み」がほとばしり、一気に覚醒して、聖槍の奪回という自分の使命を思い出す。その後は、繰り返し手を変え品を変えてパルジファルに迫るクンドリーの誘惑がすべて失敗する痛々しいシーンは、クンドリーの女としてのリアルさが凄い。いじらしい魔性の女というパラドックス


性愛と死は表裏一体のもので、その苦悩を突き詰めたところにしか救済はない。これは『トリスタンとイゾルデ』などにもみられる、ワーグナー作品を貫く主題といってよいだろう。本作は、それが聖杯騎士団の自己崩壊と重ね合せて描かれる、きわめて難解で分かりにく作品だが、クプファー演出は、苦しみに喘ぐパルジファルとクンドリーがはっきりと前景化されるので、救済の崇高さが十分に伝わってくる。クプファーは、本作に仏教の影響を読み取るというユニークな解釈をしており、三人の僧侶が登場し(下記写真↓)、そのオレンジ色の袈裟をパルジファルもクンドリーも最後に纏い、仏教とキリスト教の融合という結論で終わる。原作ではアムフォルタス王は最後に聖槍の奪回によって助かるのだが、本演出では、「死ねないという苦」から彼が解放されて死ぬという大きな変更が行われている。このような大胆さもまた面白いところだ。歌手は、パルジファルを歌ったクリスティアン・フランツ、クンドリーを歌ったエヴェリン・ヘルリツィウスの二人のドイツ人が素晴らしかった。ワーグナー歌手というのは、たんに声量だけではなく、これだけの存在感と迫力を意味していることがよく分かった。

以下に5分間の動画があります。
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/parsifal/movie/index.html