[演劇] テネシー・ウィリアムズ『ガラスの動物園』
イリーナ・ブルック演出 新国立劇場小H
(写真左は、イリーナ・ブルック)
20世紀後半のあの「演出家の時代」を創出したピーター・ブルックの娘、イリーナ・ブルックが演出。だが、必ずしも満足のいく上演ではなかった。まず、たびたび音楽とともにスクリーンに映像を映したり、人が踊ったりする「過剰な」演出が、舞台を甘くしてしまった。科白もあちこちが大きくカットされた。「ゲルニカの爆撃やヒトラーの山荘の霧」について語るトムのナレーションは、「アメリカ」が置かれた時代状況を示す上で欠かせないはずだし、母アマンダが雑誌を電話で売り込むシーンは、彼女の外部世界との繋がりを示す重要な箇所だ。それらが全部なくなった。舞台装置にも問題がある。一家が住む安アパートのリアリティを示す「非常階段」がない。「非常階段」を通って人々が部屋に出入りすることは、この物語の根本に関わることだから、従来のどの公演もそれを重視したのだと思う。結果として、舞台がすっかり「抽象的」になったが、それがこの作品の特質である「刺すような痛み」を減殺したように思う。
トムを青年ではなく中年男性にして、過去を回想することにしたのは、試みる価値があるのかもしれない。『ガラスの動物園』は全体が回想のメタ構造になっており、科白の詩的な美しさは格別だ。たとえば、冒頭のトムの回想の有名な科白にはこうある。「記憶の中では、あらゆるものが音楽に誘われて現れるのです。だからいま、ヴァイオリンの音が舞台の袖から聞こえています。In memory everything seems to happen to music. That explains the fiddle in the wings.」 とはいえ、原作では回想は数年前に遡るが、この舞台では三十年くらい前の追憶という設定。これだけ過去の追憶にすると、すべては「心象風景」になり、抽象化されることになる。
自閉ぎみで人見知りの少女ローラが、ジムから初めてのキスを受けるシーンは大変美しいが、陶酔したローラが音楽とともに踊るというのはまったくいただけない。原作のト書きは、「ジムが手を離すと、ローラは輝くような恍惚とした顔をしてソファーに腰を沈める」とある。ここは電気が消えたほとんど真っ暗なシーンで、本当にひっそりとキスを受けるからこそ、我々はローラに深く共感できる。明るい舞台で音楽に合わせてローラが踊ってしまったら台無しだと、私は思うのだが・・・。中年のトムを演じた木場勝己の演技は本当に素晴らしかった。ローラの中島朋子もよかったと思う。アマンダ(木内みどり)が物足りないが、これは演出家の問題。