田島正樹『読む哲学事典』(1)

charis2006-05-25

[読書] 田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書、5月21日刊)


田島正樹氏の新著が出た。私のブログにもよくコメントをくださるtajima氏である。本書は、「一人で執筆した」哲学事典であるが、さまざまな問題相互の連関がよく見える優れた書物になっている。田島氏は、現代イギリスの哲学者マイケル・ダメットの系譜に連なる「反実在論」の立場に立つ哲学者である。「反実在論」とはいかなるものかを説明するのは難しいが、本書を読むと、「反実在論」の視点というものがよく分かる。


本書の中心となる”問い”は、この世に「新しいものが生まれる」とは何か、いや、もっと正確に言えば、「新しい意味が生成する」とはいかなることか、という問題である。これは簡単なことのようで、実はそうではない。というのは、何かが「生まれる」というのは、そこに因果関係の理解が入っており、生み出された結果は、それを生み出した原因によって、結果としての在り方がすでに規定されているからである。結果の理解は、その原因の理解に含まれているから、「新しさ」はどこにもないことになる。「石が当たって窓ガラスが割れる」という出来事に、我々は少しも驚かない。こういう場合は当然こうなるという、よく知られた「必然性」がそこにあるだけなのだ。


我々は「意味」というものを、自分がすでに知っている「意味」によってしか理解できないように思われる。初めて聞く言葉や未知の概念がどのように理解されるかを考えてみればよい。新語や未知の概念は、すでに自分が知っている言葉や概念にうまく言い換えられたとき、それを理解したと感じる。つまり、自分の前に新しく現れたものは、すでに知られているものにうまく置き換えられた場合にのみ、それが何であるのかが分かる。逆に、うまく置き換えられないものは、雑音のような「無意味なもの」として視界からこぼれ落ちてしまう。要するに、「意味のある新しいものが生まれる」というのは、デリケートで難しい問題なのである。


そのような「創造」の可能性を哲学の中心部において認めようというのが、田島氏の「反実在論」の立場である。この問題に立ち向かった日本の哲学者は多くない。土屋賢二氏の『猫とロボットとモーツァルト』(1998)は、芸術における「新しい様式の出現」について考察した優れた論考であるが、田島氏の新著は、哲学の根本問題として「創造」の問題に本格的に取り組んだ価値ある挑戦の書である。「創造」の問題は、非常に広範囲にわたって存在する。たとえば、「救世主が現れる」という場合、イエスという一人の赤ん坊が新しく産まれたとしても、それが前から言われてきた「救世主」であると分かるわけではない(本書p22)。そこには、非常に困難な「意味の生成」がなければならなかった。「運命」「偶然」「自由」といった問題は、いずれも「意味の生成」に関わっている。本書は哲学事典であるので、各項目に分かれて説明されているが、たとえば、「運と偶然」「ここと私」「自然とユートピア」「弁証法と(再)定義」「保守主義と左翼」「法と革命」「本質と時間」などの項目は、特に優れている。そしてその理由は、これらの項目がすべて相互に深い連関があるという洞察が、どの項目からも読み取れるからである。その中の幾つかを、これから取り上げて紹介していきたい。(続く)