[演劇] 太田省吾 『更地』 杉原邦生演出

[演劇] 太田省吾 『更地』 杉原邦生演出 世田谷パブリックシアター 11月9日

(写真は舞台、原作は「初老の」夫婦だが、この上演では若い夫婦という想定になっている[濱田龍臣南沢奈央])

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太田省吾を見るのは、二年前に『水の駅』(杉原邦生演出)に衝撃を受けて以来、これが二作目。「初老」を「若い」夫婦に変えたことによって、(私の見ていない)原作とは印象が違うはずだが、静かな、しかし深い感動が残る傑作だ。太田が『更地』で表現しようとしているのは、『水の駅』とまったく同じで、<人間は、ただそこに存在するだけで美しく、愛おしい>ということだ。『水の駅』の場合は、水飲み場が一つあってそこを色々な人が利用するだけだから、砂漠のオアシスに人が来ては去ってゆくような光景だ。『更地』の場合は、そこに家があったのだが、今は壊されて更地になっており、かつてそこに住んでいた老夫婦がやってきて、わずかに残された流し台、便器、ブロック、廃材などを懐かしむ、ということだけが舞台で表現される↑。たったそれだけのことなのだが、人間って、何と美しく、愛おしいのだろう!という感慨がこみ上げてきて、思わず涙してしまった。

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舞台を見ながら、私はジンメルの「橋と扉」(1909)を思い出した。太田省吾は読んでいたのかな、とまで思った。「橋と扉」は、道、橋、(家の)ドア、窓などが、なぜ存在するのかを究明したごく短いエッセイだが、ジンメルの最高傑作とも言われている。その内容は、「人間は、(宇宙に向かって開かれている)境界を知らない境界的存在だ」ということである。「家」のような、外部と内部を区切る「境界」を自分で作らなければ生きていけないが、しかし、同時にこの「境界」から自由に外に出てゆく存在だ。家には必ず扉や窓があり、そういう境界点の象徴が「扉」や「窓」である。『水の駅』の水飲み場という小さな空間も、『更地』に記憶として残る家の痕跡も、ジンメルの言う「境界点」だ。「境界」を作って中に籠らざるをえない人間も、その「境界点」を介して宇宙に開かれている。『水の駅』は科白は一切ないのだが、唯一存在する音である、アルビノーニの「オーボエ協奏曲」とサティの「ジムノペティ」は、まるで天上の音楽のように聞こえた。そして『更地』の本上演では、(たぶん戯曲にはない)星散りばめる大空が、終幕直前に映し出されたが、これらはともに「宇宙に対して開かれている」ということを言っている。カントも定言命法を「星散りばめる大空の下に立つ人間」に譬えていた。つまり、星散りばめる大空の下でこそ、人間は自由で美しい存在になるのだ。なぜなら人間は、誰もが「永遠の今」を生きているのだから。

 

この上演では、原作の初老の夫婦が若夫婦に変更され、過去の家を回顧するのではなく、これから家を建てて新しい生活を始めようとしているようにも見える。舞台を見ただけでは、そこは十分に読み取れないが、しかし原作でも、「旅に行こうよ」と夫婦は何度も言い、旅に出ているし、全体でもっとも印象的な場面は、残された窓枠を手に持ち、夫婦が外を見ながら「窓ごっこ遊び」をする場面だから、境界点を自由に行き来する人間が主題だとすれば、これから住む家を想像しながら「ごっこ遊びをしている夫婦」に設定変更することも可能かもしれない。たしかに「更地」は、これまで家があった場所であるが、しかし、これから家がある場所でもありうる。演出の杉原邦生は凄い人だと思う。