永井均『私・今・そして神』(2)

[ゼミナール]   永井均 『私・今・そして神』 (04年10月、講談社現代新書


昨年の11月3日に、このブログに本書の批評を書いたが、その続き。この4月からある大学院の演習で、熱心な6名の院生諸君と本書を丁寧に読む機会に恵まれた。その進行に合わせて、本書を詳細に分析してみたい。したがって、何回も連載することになる。今回は、第1章の2「全能の神も打ち破れない壁」を扱う。


(1) B.ラッセルの「5分間前の神の世界創造」説の含意するもの。「神は今から5分前に、過去の記憶を含めて世界を創造した」という主張が有意味であるためには、実は、記憶とは区別される過去そのものの存在が前提されている。すべての過去を記憶に還元してしまっては、「記憶」という概念そのものが無意味になってしまう。「存在したが記憶されていない過去」と「記憶」とは、両方が同時に与えられないと、それぞれが有意味にならない概念なのである。

これを永井は、「経験一般を可能ならしめる条件が<同時に>経験の対象を可能ならしめる」というカントのテーゼと重ねる。つまり「記憶一般と記憶の対象(つまり過去)とを<同時に>可能ならしめる条件」と読み替える(p25-27)。これは本書の議論の全体に関わる重要なポイントで、「経験の対象を可能ならしめる」というのは、たとえばサングラスをかければすべて黒く見えるというような依存形態のことではなく、記憶の「内部と外部」が「同時に与えられる」ことを意味する。記憶と過去そのものの「区別」が与えられることが、ラッセルの「5分間前世界創造」の有意味性の前提なのである。外延を図示すれば、円で囲まれた内部が「記憶」であり、円の外部に広がる地の部分が「記憶の外部にある過去そのもの」になる。主観の形式=メガネ説ではなく、円の内部と外部を分ける「境界線」が与えられることが、「カント原理」なのである。(この原理は、p19の「夢は、<見た>という過去形で与えられる」という夢の本性とよく対応するが、完全に同一視できるかどうかは要検討。)


(2) この構図を前提にして初めて、「ある記憶と対応する過去」が存在するかしないかという問題を立てることができる。たとえば、「神は5分前に、5年前の過去を創った」は有意味ではない(p28)。5分前に作られたのだから、5年前には「まだない」とも考えられるし、神が「5年前の過去」を創ったと言う以上は、5年前に「もうある」とも考えられ、矛盾している。つまり、「記憶とその外部にある過去そのもの」という境界線を挟む両者<込み>の構図がない限り、「過去という存在」がうまく理解できないのである。

それに対して、「神は5分前に、5年前という(人間の)記憶を作った」は有意味である。そして、「それは5分前に創造された記憶だから、それに対応する(=そのような内容をもつ)5年前の過去は存在しない」という文も有意味である。これは「カント原理」にかなった構図だから。


以上をふまえて次節で、「50センチ先世界創造説」という空間の「内部と外部」との比較が行われる。そして、カント原理では「開闢の奇蹟」が隠蔽されるという永井の本来の主張がなされる。