高橋哲哉 『靖国問題』(2)

[読書]  高橋哲哉靖国問題』 (05年4月、ちくま新書)


前回に続いて論点のまとめ。コメントは次回に。


(4) 靖国神社の「超宗教性」の危険性。靖国は新憲法政教分離原則に従って、やむなく「宗教法人」になったが、「国家神道」としての靖国の本質は、仏教やキリスト教など他のすべての宗教を自己の下へ従属させる国家イデオロギーにある。戦後、何度も繰り返された靖国神社の「国家護持」「特殊法人化」の試みや、「靖国神社憲法にいう宗教ではない。日本人ならだれでも崇敬すべき"道"(道徳)である」という、靖国神社の池田権宮司の発言(1969年、戦前の話ではない)がそれを証明している。

戦前のキリスト教や仏教は、「靖国非宗教」の論理に完全に屈服させられた。1932年、学生の靖国参拝拒否事件によって存亡の危機に立たされた上智大学は、全校謹慎させられ、学長・神父・学生がこぞって靖国に参拝させられた。上智大学は、「忠君愛国の士を祀る神社に参拝することは、国民としての公の義務に関わることであって、各人の私的信仰とは別個の事柄であることを了解した」と文部省に伝達した。文部省は、「学生生徒児童を神社に参拝せしむは教育上の理由に基づくものにして・・・」、個人の宗教の自由と矛盾しないという見解を述べた。(現在の、入学式・卒業式の「君が代」斉唱の強制も「教育上の理由」である。)仏教もまた、「阿弥陀仏の信仰は皇法の中に包摂せられるものといただかれる」(真宗大谷派)という論理で、「国家の祭祀」への宗教の完全吸収を自ら正当化した。


(5) 「鎮霊社」の欺瞞性。靖国が自軍の戦没兵士のみを「顕彰し」、自軍兵士が殺した「敵」や民間人に無関心であることは、靖国の本質に由来することであるが、しかし靖国神社自身は批判に対する逃げ道を用意している。1965年に、境内の片隅に立てられた「鎮霊社」は、「靖国神社本殿に祀られていない方々の御霊と、世界各国すべての戦死者や戦争で亡くなられた方々の霊」を祀るとされる(靖国神社HP)。しかし、「訪れる人もない薄暗い一角にひっそりと立っている」(高橋p177)この社の「霊」は、本殿の「祭神」にはカウントされない。「霊」に大きな差別を設け、「鎮霊社」と本殿の合祀を決して許さないことは、靖国が「戦争の悲しみを共有する」真の「追悼」をしていないことを示している。(「はてな」のキーワード「靖国神社」にも「鎮霊社」のことが大きく紹介され、西郷隆盛など「朝敵・賊軍」系が祀られていると紹介されているが、これは靖国の本質ではない。)